マルコ 4:8 ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
友達から手紙が届きました。「変えようと思わないこと。変えようと思う欲望は愛の敵。自分を変えようと思わないこと。ありのままの彼らを愛すること。世界を変えようと思わないこと。それは神様の手の中にあるから。そして神様はそれを知っている。このことがわかれば不思議と変わってくるものだ。荷物に邪魔されないように人生の流れに身をゆだねること」まるで禅問答でしたが、神様がなさることを変える力など人間にはないということでしょう。神様だけでなく、人を変える力も持ち合わせてないのかもしれません。イエス様の時代でさえ、たくさんの人たちがイエス様のもとを去っていったのです。宣教とは神様や人を変えることではありません。今は福音の種まきでしかないのかもしれません。
イエス様が語られた「種まきのたとえ」です。種がまかれ、いろいろな場所に落ちます。道端、石地、茨の中。しかしどれも芽をだしますが成長も、どれも芽生え、育って、実を結ぶこともできませんでした。このたとえの解説はイエス様ご自身でされています。そこには「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」と言われました。神様の言葉が「よい土地」に蒔かれた時、それは百倍にもなるというのです。私たちは神様のみ言葉が蒔かれた「よい土地」であると聞こえてきます。
引退教師の古財克成先生の前夜式のあと、3人のお子様たちと話す機会がありました。長男さんは「父は、いつでも、どこでも、家庭の中でも牧師でした」と言われました。古財先生は教会の牧師であったときは、教会と家には鍵をかけなかったそうです。教会とは、誰がやってきてもいい所だからと言われていたそうです。しかし家族にとってそれは大変な苦痛であったと笑いながら話されていました。その中で先生が持っておられた3冊の聖書の話になりました。古財先生には3冊の聖書があり、それにびっしり書き込みをしておられたそうです。娘さんが「あの聖書はどこにあるのだろう」と言っておられました。この3冊の聖書こそ3人の子どもたちに蒔かれた福音の種だと思いました。
イエス様は「よい土地に落ち」ということを教えられました。生活の中で、信仰によって私たちは良い土地に変えられます。それは、信仰の先輩たちの証しを受け継ぎながら良い土地となっていくのです。古財先生が子どもたちに示された生き方は、彼らの中で素晴らしい財産となり、良い土地として家族に継承されていくことでしょう。
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