ガラテヤ 2:11 非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。
相手の人との距離感をつかむ。空気を読む。人と人とのコミュニケーションをどうするか。人間関係をうまくやっていくためにという本がたくさん出ています。自分の心を開く方法という本もあり、本をよむことでそれができるのだろうかと思います。被災地救援をしていていつも考えていたことは、痛み苦しみに向かい合うということでした。その人の前から逃げないということです。私にはわからないということで、避けてしまえば簡単なことですが、その人に寄り添うにはその人の痛み苦しみから目をそらさないということでした。そうやって信頼関係を築いたときにだけ。本当の寄り添いができたように思います。
パウロはペトロの行為を激しく非難しています。ペトロがヤコブ(主の兄弟)のもとから人が来るまでは、異邦人と食事を共にしていたのに、それ以後それをしなくなったからでした。パウロはこの行為を「信仰義認」という内容から「福音」と言う点でとらえなおしています。パウロにとっては納得できないものがあるのです。相手が、イエス様の一番弟子のペトロであっても「面とむかって反対」しています。これも同じ信仰をもち、信頼を土台にしているからできる行為だといえます。
近くの喫茶店に行ってみました。さすがに静かで雰囲気も良く、みな美味しそうにアイス珈琲を飲んでいました。一人で涼んでいると、横に若い男女が入ってきました。アイス珈琲を注文するやいなや、それぞれが携帯電話をだして、自分の友達にメールをはじめたのです。その後一言の会話もなく、しばらくして「じゃそろそろいこうか」と店を出ていきました。この2人は会話しなくていいのかな?お互いのコミュニケーションはどうなっているのだろうか?そのうちに意思疎通もないままに「じゃ、別れようか」で関係が終わってしまうのかなと心配になりました。メールの発達とともに、お互いが向かい合って言葉を交わす会話力が低下しているのではないかと思います。会話のない世界を考えるだけでもぞっとしますが。
パウロはペトロに対して「面と向かって」反対をしています。顔と顔を合わせて、会話をしているのです。ここに2人の信頼関係が見えます。はっきり言うことができる関係だったのです。本人のいないところで批判することが多い私たちは、その関係に「信頼」というもがあるかどうかを問われているようです。
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