ヨハネ 15:5 わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。
教会に赴任して思うことは、自分の故郷というだけでなく、自分を育ててくださった先生たちがおられる所だということです。高校の先生たちが教会の信徒であるということを、これまであまり意識したことはありませんでした。しかし、牧師として赴任してそのことの意味の大きさを感じています。同じ信仰に立っていること。その先生方に導かれたこと。そして再び出会ったこと。その一つ一つが「つながって」いるのです。神様がまかれた信仰の種は、すべてのつながりの中で育てられた命なのだと思います。
宗教のことを英語ではreligionといいます。これはラテン語のreligareからできたことばだそうです。意味は「つなぐ」「結び合わせる」ということです。このことから、宗教というものは人間が神様とつながろうとする行為を宗教と考えたようです。イエス様はまさにこの「つながる」ことを教えています。
教会のささやかな庭に、ブロッコリ-とタカナを植えた時がありました。偉そうにいっても、あわせて五本ですが。さて野菜を作らせていただいて思うことは、買った方がはるかに安いということです。苗や種はそんなに高くないのに、それに必要となる手間、時間、虫との戦いを考えると溜息がでてきます。それでも作らずにはおれないのはどうしてなのか。いろいろ考えてみると、こころから感謝して食べることができるからだと思います。神様が作られたものを食べるという実感。命あるものをいただいているという実感。その命に少しでも参与しているという思いが感謝につながるのです。
イエス様は「つながっていなさい」と教えておられます。イエス様につながっていることは、信仰を同じとする人たちすべてとつながることになります。このつながりが、人を支え導くのです。つながっていることの意味は、支えられているということでもあります。
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