マルコ 11:33 彼らはイエスに、「分からない」と答えた。
「わかりません」と正直に言える人はいいなと思います。大抵、わかっているように見せかけていることが多いものです。しかし、わかっているふりをしていると後でとんでもないことになります。この人は理解していると思われ、何も答えなければそれに同意したと言われてしまう時があるのです。海外で言葉が通じないときこそ、「わかりません」とはっきり言う勇気が必要です。それが相手に対する礼儀でもあります。ただ正直に「わかりません」ということが大切です。
イエス様は、神殿から商人を追い出した出来事をみた、祭司長、律法学者、長老たちから質問されます。内容は権威についてです。そのような権威を与えているのは誰かという問でもあります。これに対して、イエス様は逆に質問をされています。彼らには、どんなに答えてもまわりから非難されるようなものでした。そこで「わからない」と答えたのです。すると、イエス様も「答えない」と言われたのです。不思議な問答です。
ある時、教会学校でこども説教をしました。終ってからある子どもに呼び止められ、「先生は自分の話を自分できいて面白いと思う」と聞かれました。これはショックでした。ところが最近、自分にとって福音だと語ったことがカラ回りすることもあると気づきました。その福音を深めて自分のものにしないと、福音が福音として伝わらないからです。もっと言えば、その人の信仰そのものが語らなければ伝わらないのです。自分でわからないことを伝えても、何も伝えられないのです。「分からない」が、本当の「分からない」になると道がみえてくるのですが。
イエス様の答え方は、あざやかなものでした。所詮、自分が分からないことは、分からないと認めるまで分からないのです。イエス様のまえでは、「何がわからないか、それさえもわからない」私たちです。分からないことを認めたとき、イエス様に聞くことができるのです。神様の真実は、与えられた信仰によって「わかる」ときがきます。しっかりみ言葉に聞いていくことが大切です。
<音声礼拝説教は「神様の色鉛筆」でどうぞ>