ルカ 17:5~6 使徒たちが、「わたしどもの信仰を増してください」と言ったとき主は言われた。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことを聞くであろう。
使徒たちはイエス様に「わたしどもの信仰を増してください」と求めています。どうしてこのようなことを求めたのでしょうか。多分本人たちにはわかっていなかったのでしょう。ところが、イエス様は何が彼らの本当の求めであるかを知っておられたのです。どうして使徒たちは「信仰を増してください」と求めたのでしょうか。その理由は「赦し」にあります。使徒たちはイエス様が言われるように人を赦すことができないのです。そしてその理由を「信仰が少ないからだ」と考えたのでした。そのような使徒たちの本当の求めに対して、イエス様は言われました。「もしあなたがたにからし種一粒ほどの信仰があれば、この桑の木に、『抜け出して海に根を下ろせ』と言っても、言うことをきく」と。つまり、信仰のせいにしてはいけないよと言われたのです。信仰が真の信仰であるかどうかが問題なのです。私たちは「できないこと」を信仰の問題にしてしまいます。しかし実際の問題はそこにはありません。与えられた信仰に気づいていない私たち自身にあるといえます。その与えられた信仰の証しとなるものが「奉仕」だと、イエス様は言われるのです。
「いま食べたいものが、身体の栄養に不足しているものである」と、どこかで読みました。そこで自分を振り返ってみますと、私の場合はここ数日「野菜」が食べたくてしかたありません。ということは、ビタミン不足なのかなと思います。さて野菜については一つの思いでがあります。あれは中学生くらいのときでした。母親のつくる料理に、一日おきに「野菜炒め」が出て来ることがありました。「野菜炒め」が出ないときは、どっさりのキャベツの千切りがでました。私たち兄弟そろって不平を言ったことを思い出します。兄なんかはお皿をひっくり返し「こんなもの食べられるか」と激しく抗議したことを覚えています。とにかく母が作ってくれた料理に文句ばっかり言った時期があったのです。いまにして思えば、あの頃の母は、共働きで仕事に忙しかったころでした。朝はやくから夜おそくまで立ちづくめで働いているときでした。たぶん、野菜が多かったのは、母の身体が自然と野菜を求めていたためだと言えます。それに気が付かなかったのです。母の身体をいたわってあげられなかったことが、恥ずかしく思います。
私たちは無意識のうちに、自然と求めているものがあります。それは自分ではわからないものです。なんでこの人はこればっかり言うのだろうか。なぜ、この本ばっかり読んでいるのか。しかし、よくよく考えてみると、それがその人の一番求めているものだと言えます。そこに本人だけは気が付いてないのです。私たちは何をイエス様に求めているのでしょうか。それに気が付かないで生きているのかもしれません。ところが、自分は気が付いてなくても、その生き方にすでに求めているものが現れているのです。
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