教会総会の季節になりました。昨年1年をまとめ、今年の計画を立てました。コロナ禍に翻弄された1年でした。教会としても初めての状況に戸惑いました。それでもその時にできることで対処してきました。教会の集いの再確認ができました。
コロナ禍にあって礼拝中止をしなかったことは恵みでした。公開礼拝は中止しましたが、礼拝堂ではライブ中継・リモート礼拝を行い、役員スタッフの皆さんと礼拝ができました。また自己責任のもと礼拝参加もありました。公開礼拝が再開されてもしばらくは短縮礼拝でした。その中で聖餐礼拝を行いました。どうすればできるかを考えました。個別包装の聖餐式は初めての経験でした。礼拝平均は5名増えました。また礼拝献金は予算を越えました。コロナ禍の中で教会成長ができたことは奇跡です。
今年の抱負を資料に書いている時にネットで次の記事をよみました。「心理学者ピーター・ゴルウィツァーによると、人は抱負を口にすると、それが達成されたと脳が錯覚して、行(おこな)ってもいないのに満足してしまい、結果モチベーションが下がるという。特に人に話して相手がそれを認めてくれると、すっかり満足してしまうのだとか」と。なるほどと思うことがあります。夏休みの勉強計画が実施できなかったのはこれかなと。書いたり、言ったりすると達成されたと思い込む。それで満足してしまう。だとすると豊富ではなく「夢」を書くべきかと。
そんなことを考えながら、宣教計画の夢を書きました。神様からいただく「幻」を考えています。こうしたいではなく、広島教会はこうありたい1000人礼拝ができる教会。誰も認めてもらえないような壮大な夢をもつことも大事です。神様に必死に求め続けていけば必ずできると信じて。求めよ、そうすれば与えられるであろう。ですね。