彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。
どうみても神様は不公平だと思える時があります。しかし、神様の目からみればそれは当前に過ぎないことがあるのです。私の目から見るか、神様の目から見るかで、恵みが試練になり、試練が恵みとなるのです。
本日の箇所は「放蕩息子のたとえ」としてよく読まれるところです。このたとえは子どもたちの劇によく使われます。私も幼稚園でやったことがあります。その時の役は『弟』でした。どんな感想をもったかは忘れてしまったのですが、ただ、帰ろうと思っても帰れないのだなあ~と思ったのは覚えています。
私たちはこのたとえを、いつも兄や、父の目から読んでいないでしょうか。あんなに好き勝手にしたのに、神様が赦してくださったという読み方はどこに立っているのでしょうか。それは弟の立場ではないことはわかっています。好き勝手にした弟が、最後には豚の食べる「いなご豆」さえも食べられなかったという記事があります。弟にとってこの「いなご豆」は『痛恨のいなご豆』だったに違いありません。そこで初めて我に帰ったのだと思います。「罪」という言葉をよく口にする私たちですが、自分の罪に『痛恨』することができるかが悔い改めのポイントではないかと思います。