2コリ 2:10 あなたがたが何かのことで赦す相手は、わたしも赦します。わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです。
パウロは「涙の手紙」を受け取ったコリントの人々の反応を聞いていたようです。その上で、悲しみの原因になった違反者を赦すことをのべています。パウロが「涙の手紙」を書いたのは、パウロの思いに対するコリントの人々の従順をみるためでした。コリントの人々が違反者に対して赦すとき、それはパウロも同時に赦したことになります。そしてキリストの前で赦すとは、完全に赦すという意味でもあります。パウロはそれを求めています。
自分の目の前で父親を殺害されたシスターがおられます。それはまだ5歳位のときでした。その後、シスターとして生きる決心をした彼女は、それでも愛するお父さんの命を奪った男を赦すことはできませんでした。それがどこかに引っかかっていたといいます。イエス様は「赦しなさい」と命令されています。しかし、どうしても赦すことができなかったのです。ある時、彼女は父親を殺害した男と対面することになりました。その時の不思議な緊張に自分でも驚愕したと言います。自分はキリスト者としてどのように会えばいいのか。祈りの中で与えられた答えは「私はその男を赦すことはできない。しかし、彼の罪のためにもイエスは十字架におかかりになった。私の罪のためと同じように」でした。彼の後ろにイエス・キリストを見たときに、はじめて落ち着いて彼と会うことができたそうです。
パウロは「わたしが何かのことで人を赦したとすれば、それは、キリストの前であなたがたのために赦したのです」と述べています。私たちは「赦す」ということが苦手です。しかし、キリストがそこにおられる時、誰もその十字架を否定することはできません。十字架のイエス・キリストが私の罪を赦されたことを知るとき、私たちが赦すことのできない事柄の前にも同じキリストがいることを思い出します。