2コリ 6:10 悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています。
この6章でパウロは、コリントの人々へ語ってきたことを一度まとめています。結論としては「心を開くように」と勧めています。それが警告の言葉であったとしても、心を狭くせずに受け止めなさいというのです。パウロの言葉の背後には、パウロが持っている福音があります。何ももっていないパウロがもっているキリストのみ言葉によって「心を開くように」と言うのです。
千利休が陶工・長次郎に造らせた抹茶碗に「無一物(むいちぶつ)」というものがあります。松平不昧公(1751~1818)所持で知られる赤楽茶碗の名碗です。この茶碗になぜ「無一物」と名前がついたのか私にはわかりません。無一物とは、好き嫌いとか損得、良し悪し、などといった二見にとらわれた概念がないことです。囚われない心というのかもしれません。この茶碗をみていると、その存在のみでいいのだという気になってきます。どう受け取るかはあなた次第。そうするとこの茶碗には無限の解釈ができるということです。心を開いてみるときに受け取る無一物があるのでしょう。
パウロは「無一物のようで、すべてのものを所有しています」といいます。何も持っていないようですべてを持っているというのです。パウロにとってキリストの福音を持っているということは、すべてを持っているということと同じことなのです。私たちが人生の中で持たねばならないものは多くはありません。いや一つです。それがイエス・キリストなのです。