マタイ 27:37 イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを掲げた。
イエス様の十字架には「ユダヤ人の王」という罪状書きつけてありました。これに対して人々は「ユダヤ人の王と書かずに、ユダヤ人の王と自称していた」と書いてくださいとピラトに願っています(ヨハネ福音書)。イエス様に対する人々の期待の大きさ、しかし現実は十字架にて処刑される姿に失望し、期待を裏切られたという思いがあったのでしょう。ユダヤ人にとっては「王」などとするにはもってのほかでした。しかし、それもこれも人間の勝手な思いによるものです。自分たちには責任のないところからの発言でしかありませんでした。
かなり前の話。衆議院選挙がおこなわれ、民主党の大勝、自民党の歴史的大敗と騒がれていました。マスコミにかなり影響をうけた選挙だったと思います。前回の郵政改革選挙と同じようなに、なんだかわからない風や雰囲気のなかで行われたような。その雰囲気が何だったかはあとでわかることでしょう。ただ、これだけ民主党も大勝してしまうと、彼らもこれから大変だなと思います。人々の勝手な期待をどう受け止めるか。追う方から追われる方へ。批判勢力から体制へとなった場合、その期待が裏切られたときの影響は大きいと思います。ただ、それを乗り越えてこそ本来の使命がはたせるのでしょう。
さて、批評家のような立場でものを言っている自分はどうかと考えます。いまを生きる私はどのように考え、この政局の中でなにを発言しやっていくのか。結局、1票を投じた私の責任を一番とわれることになります。それには、神様の御心にそって祈りつつ生きていくことが大切なのです。聖書のなかにあるみ言葉に立って生きていくこと。それこそ、私がやるべきことでしょう。