ルカ 10:2 収穫は多いが、働き手が少ない。だから収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい
伝道セミナ-で講師の先生が「洗礼をいつ授けるか、その人が主の働き手として働ける時」と言われました。受洗することは即、教会の働き手となるということを教えられたのです。
それでは、自分はどれほど『主の働き手』の自覚があるでしょうか。「スタートがゴール」と言う言葉があります。しかし、洗礼はスタ-トがあってもゴ-ルはありません。私たちが教会に集められたのは、「主の働き手」となるためなのです。イエス様が私たちを、「この人ならば、と選ばれて」ここにいます。この人ならば「主の働き手」として十分だということです。
教会には働き手が少ないといわれますが、その声を聞くと悲しくなります。きっとイエス様は「あなたがいるではないか」と言われます。 もう一度「主の働き手」としての自分を取り戻しましょう。