1テモテ 4:8 信心は、この世と来るべき世での命を約束するので、すべての点で益となるからです。
パウロは、若いテモテに「信心」について語ります。その基になっているのは「信仰の言葉」と「善い教えの言葉」といいます。この二つに養われることで「立派な奉仕者」になるのです。どちらも神様のみ言葉として受け入れる信仰の問題であり、奉仕者の中にはこの「信心」がなければ成り立たないと教えています。
好きなお坊さんは?と聞かれたら「法然さん」と答えます。家は浄土真宗だったのですが、神学校の時、仏教の書物を読み「法然さん」の生き方に共感したからです。彼の中にある「信」というものの確実さに心うたれました。流刑にあったときの言葉に「時いたらずして、素意いまだはたさず、いま事の縁によりて、季来の本意をとげん事、すこぶる恩朝ともいうべし」があります。流されたところにいって念仏を広めるのも御心だというのです。どこへいっても変わらない信仰と、それを広める役目は同じということでしょうか。人からは流刑という刑罰をうけても、それをチャンスに変えていけるのは「信心」が確かなものとしてあるからです。
私たちが生きている社会も、様々な痛み、苦しみ、試練があります。しかし、神様から信仰という素晴らしい賜物が与えられていることによって、それらは益とかえられていくのです。神様の御心によって与えられる「信」が自分の中にあることを覚えましょう。