ヨハネ 18:37 そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです」
ローマの総督ピラトは、イエス様に死刑の判決をくだす前に3つの尋問をしています。1、「お前がユダヤ人の王なのか」。2、「いったい何をしたのか」。3、「それでは、やはり王なのか」です。ピラトはどうしてイエス様が訴えられているのか、どんな罪なのかを知ろうとします。しかし噛み合いません。彼が期待した答えが得られないのです。イエス様は最後の質問に「それは、あなたが言っていること」と言われました。自分が何を質問しているのかわかっているのか、と言われたのです。
ラジオで「現代のお笑いについて」ということを話していました。ちょっと前から「お笑いブーム」と言われているが、なぜそれが面白いのかわからない。人を叩いたり、馬鹿にしたり、いじめたり。これのどこがお笑いなのかという話でした。それについてある評論家が言いました。「昔のお笑いは『笑わせる』もので、笑わせる方には知的レベルの高さを要求された。しかい今は『笑われる』ものになってしまった」と。知的なお笑いから、下品な中傷に変わっただけですと。なるほどだなと思いました。いまのお笑いに何か受け取れない気分を持っていたので、その理由がはっきりわかりました。お笑いに求めているものが違うということでしょう。
ピラトは「王なのか」と聞いています。それに対してイエス様は「それは、あなたが言っていることです」と答えられました。王かどうか、それが知りたいのはピラトであって、イエス様ではありません。イエス様は真理を証するために生まれたと言われました。王であるかどうかではなく、イエス様の存在の本質は何かを問わねばならないのです。この食い違いは十字架の後もこのまま聖書にしるされています。
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