ヘブライ 5:8 キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました。
ヘブライ人への手紙は、冒頭に宛先も挨拶もない不思議な手紙です。筆者も特定はされていません。最初からいきなりキリスト論が語られているところも不思議です。本日の「多くの苦しみによって従順を学ばれた」とは、およそ神のみ子にはふさわしくない行為であっても、神様の御旨によって試練を経験し、従順を学ばれたということです。この従順のゆえに救いの源となったと言っています。
「私たちはキリストに、どこまで従順でいられるか」という説教を読みました。説教者は、教会に対して「あなたは従順か」と問うていました。この従順というのは何かと思います。みなが勝手に考え、文句をいい、反対しているとしたら、私たちは誰に従順に聞き従えばいいのか。キリスト者として従順というとき、まずは聖書に従順に聞き従うことです。み言葉の上に立った権威にも従順であることを求められています。そんなことをかんがえながら、教会における牧師や役員とは何かを思いめぐらしていました。
ヘブライ書の筆者は「キリストは肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、ご自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげ、その畏れ敬う態度ゆえに聞き入れられました」といいます。従順を学ぶ時の見本は、キリストにあります。そのキリストは私たちのために十字架に対しても従順であられたというのです。待降節をすごしているいま、み言葉に従順であることを考えてみる機会であればいいなと思います。