ローマ 24:18 せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。
パウロは、キリスト者を迫害する人々に対して、どのように生きていくべきかをかたります。特に「迫害する者のために祝福を祈りなさい」と教えています。祝福より呪うほうが気分的にスカッとしますし、自分の心も安定するように思います。しかしそうでしょうか。「呪い」はさらなる「呪い」を生むだけです。「祝福を祈ること」は簡単なようで一番難しいことです。しかし、そこからしか平和ということばはみえてこないように思います。
喫茶店でPTAのお母さん方が楽しく話していました。はじめはよかったのですが、ボルテージが上がっていきました。ちょっとうるさかったのですが、楽しそうかな?位にみていました。すると近くにいた女子高生がいたたまれなくなったのでしょう。ついにお母さん方に注意をしたのです。「いい大人なのですから、場所をわきまえてください」と。何か深刻な話をしていたのでしょうか。話ができずにうるさかったのでしょう。お母さん方は「なに言っているの?この子は」という目で見ておられました。その光景をみて、どっちもどっちかなと思ってしまいました。たしかにうるさかったのですが、高校生も言い方は間違っていなかったかなと。「いい大人なのですから」ではなく、「会話ができないので少し話声のボリュームのさげていただけませんか」とか言えなかったのかな~と。また、お店の人に言ってもらうとか。「いい大人なのですから」ではそのあとは両者がいやな気持になっただろうなと。
「せめてあなたながたは」というパウロの言葉が妙に心に響きます。すべての人と平和に暮らすことができるのは、相手を責めることで成り立つのでなく、なお配慮を必要とすることなのでしょう。「呪うのではなく、祝福を祈るのです」という言葉から、自分が何をなすべきか考えなければと思います。