マルコ 15:34 わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。
イエス様は十字架の上で叫ばれました。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」。この御言葉は神様に対する叫びでした。この御言葉には神様が自分を捨てた目的を問う悲痛、苦しさがあります。「なぜわたしをお見捨てに」という言葉の中に、それでも神様に従いそれを受け止めていく力を感じます。
仮設住宅で支援物資を整理していたときのことです。いつも、被災者の方が数名お手伝いくださいます。おすそわけプロジェクトも初期のころは食料品がおもでした。しかし、最近では生活雑貨を多くもっていきます。とくに冬用のもの、衣料はよろこばれています。その日は子ども服も多くありました。お手伝いくださったおばあちゃが子ども服を手にとって言われました。「これ、孫にちょうどよいねえ」。そのあとすぐに「孫いねくなってた」と。涙を流されたのです。この気持ちはどんなでしょうか。津波で流された孫はまだ見つかっておられません。孫が津波で流された現実、まだそれを受け止められない。しかし、受け止めねばならない痛み。そんなことを「孫いねくなってた」から感じました。ただおばあちゃんの横にいるしかできませんでした。
イエス様は神様に叫ばれました。これは神様を信頼して叫ばれたのです。神様のご計画の中でしか生きていくことはできない。何がご計画かわからないこともあります。しかし、それでも神様に問い続けていくことがゆるされている幸いをみます。痛みは自分だけで受け止めるのではなく、十字架で苦しまれたイエスさまがともに受け止めてくださいます。