マタイ 26:37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
イエス様は十字架の出来事の前にゲッセマネで祈られました。ここにはオリーブの園があり、エルサレムから谷を隔てた場所にありました。十字架の苦しみが迫ってくるなか、ここで3回も苦しみに満ちた祈りをささげられました。聖書にはイエス様の苦しみを「悲しみもだえ」「死ぬばかりに悲しい」という表現であらわしています。
石巻のある漁港に、津波で奥様、お孫さん他17名を流され一人遺された漁師さんがおられます。1年たった今もご遺体は海から上がってきていないと教えてくださいました。漁師さんですから、力強くたくましく見えます。しかしその心の奥底にある悲しみはどれくらい深いのでしょうか。初盆に間に合わせた奥様の新しい墓の前で、震災以降はじめて号泣されたと聞きました。そして今年の正月には奥様のご実家に行かれ、奥様の家族に土下座して「守ってあげることが出来ずすみません」と涙ながらに謝罪されたといいます。ひとり生き残った方の中にある深い痛みを思い、受け止めることができない自分を悲しくて泣くことしかできませんでした。この1年の時間は深い悲しみ中にあったのです。
イエス様はこの苦しみの中で、それを受け止め十字架への道を選びとられました。十字架はイエス様にとって自明のことではなく、深い悲しみ苦しみのはてに選びとられたものでした。津波のあと一人生きて行くということも悲しみと共に生きて行くことを選びとることです。この選びに寄り添えるのは十字架の主イエスだけだと思います。最後まで共に寄り添ってくださる方がおられる。ルーテル救援がそのことをお伝えできればと願っています。
<本日、仙台支援センターに出張のため音声朝礼はお休みです。>