1テサロニケ 2:8 わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていたので、神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほどです。
パウロによるテサロニケでの宣教は、迫害・苦闘の中で行われました。しかしパウロは、迫害・苦闘の中で大胆に福音を語ったとあります。命がけで語られた福音は、人々にとって神様の言葉でした。彼らはパウロの語る福音を、神様の言葉として喜んで受け入れたのです。パウロの語る福音には神様の力があり、それが命を生かすことになりました。
「準備されていない礼拝説教はすぐわかる」と教えてくださった信徒の方がおられます。今週牧師は忙しかったのだろうと思って聞いておられるようですが。実は、準備されてない説教の見分け方も教えてくださいました。それは説教のあとで「なんちゃって」と言えるような説教だそうです。聖書と注解書のあちこちから引っ張ってきて、その牧師の信仰がみえないと最後に「なんちゃって」といえる説教になるそうです。なるほどだなと思います。つまり「この福音を伝えたい」というものがないのです。生かされる福音のない説教はやっぱり「なんちゃって」とつけたくなります。
パウロは「神の福音を伝えるばかりでなく、自分の命さえ喜んで与えたいと願ったほど」と言っています。福音を伝えるとは、自分の命さえ喜んで与えることができる事柄です。なぜならパウロは人々を愛しているからです。「なんちゃって」説教になってしまうのは、目の前にいる人々を愛していないからできることなのではと思います。自分がしてきた説教も見直しています。
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