1コリント 15:14 キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄であるし、あなたがたの信仰も無駄です。
パウロは「復活などない」という主張に対して、力強く反論しています。なぜなら、死者の復活の否定はキリストの復活をのべ伝える宣教の否定となるからです。キリストの復活を否定する人々には、「この世の生活」だけしか望みがなくなります。キリストの復活を信じ受け入れるとき、新しい命の希望を持つことができるとパウロは主張しています。
新霊山教会の特別講演会に招かれ、「キリスト教信仰と不条理」というテーマで震災報告をしてきました。東日本大震災報告というだけでなく、「信仰と不条理」という視点で被災地で感じたことを話してくださいというものでした。「神様がいるのならなぜこんな大災害がおこるのか」「震災は因果応報の結果か」「大災害の時に信仰はどのように働いたか」「神のみ言葉は何になったか」「神の裁きとは何か」など。大変難しく、重いテーマでした。ただ、被災地に立ったものとして、実は被災者からそのよううな問いかけをされたことはありません。私が牧師であることはご存知でした。経験したことがあまりの大きすぎて、痛み苦しみが深すぎてまだ言葉にできないのかもしれません。言葉にしてしまうと耐えられないのかもしれないのです。不条理の問いは、被災地を外から見たときに出てくる問いだと思います。それに答えていくことが被災地に立って救援活動してきた者の務めだと思います。
パウロは「キリストが復活しなかったのなら、わたしたちの宣教は無駄」だと言いました。もし神様がそこにおられなかったら、私たちの救援活動も無駄です。ある被災者の方がいわれました。「神さまがおられなかったら、私の娘は救われない」。深い痛み苦しみの中で、生きていかねばならない方々にとって不条理とは、神様がそこにおられないと思うことではないか。いまはそこまでしかわかりません。
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