イザヤ25:10 主の御手はこの山の上にある。
救いを待ち望んでいた民に預言ざれた言葉の一つです。「御手はこの山の上に」。神様がここにいて守ってくださる。神様はここにおられるという確信があります。「御手」という言葉にひかれます。私たちにも手が与えられているからです。神様の御手とわたしの手。なにか不思議なつながりをいつも感じています。
みどり幼稚園の先生とお話ししました。神様のクレヨン4を読んでくださり、それを子供たちにお話しくださったそうです。それはお弁当の記事でした。広島教会には幼稚園、保育園があり毎週礼拝でお話をしていました。そのうちに礼拝だけでなくお弁当も一緒にたべることにしました。子供たちとのふれあいが楽しかったのです。どこへ座るかでいつも大騒ぎになるのですが、なんとか先生たちのご協力で位置をきめていただきました。お祈りの歌をうたって、お祈りして食べる。その時、子供たちのお弁当の中身をのぞき見するのです。これはもう素晴らしい作品でした。食べるのがもったいないくらいです。お母さんの働きに心から感心しました。「これはどんな心でつくったのか」という手紙でもついていたらいいと思いました。毎日のお弁当をいただくことによって、子供たちは愛をいただいています。その愛は確実に伝わっています。子供たちは真剣に食べています。青山俊董尼はあるPTAでの講演で次のようにいわれました。「ただ着せればよい、ただ食べさせればよいというものではありません。愛を着せ、愛を食べさせる。祈りを着せ、祈りを食べさせてやってください」と。神様からいただくものすべて愛です。それを自分の手を通して人に伝えるのです。
私たちも、神様から今日のために与えられた働きがあります。神様は機械的にするためにその働きを与えられているわけではありません。神様から委ねられた私たちの働きは「この手に神様の愛が宿る」仕事です。今日も手を眺めるときがあれば、この手に神様の愛が宿っていることをおぼえましょう。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>