ルカ 15:4 見失った一匹を見つけ出すまで、探し回らないだろうか。
イエス様の有名なたとえ話です。私たちが神様を見失ってしまっても、神様はあきらめずに最後の一匹を見つけるまで「私」を探してくださるのです。「探し回らないだろうか」と、それが当然のように話されています。そのような神様の思いを感じます。
毎週火曜日は宇土教会勤務日となりました。午後の時間を宇土で過ごしています。昨日が初めての日でした。代議員の方が来て下さり、教籍簿から一人一人を紹介してくださいました。ナンバーは110まであります。そのうちに召天されたから、転籍された方などを聞き、一番おおいのは別帳会員でした。教会から離れて連絡がつかなくなってしまった信徒のことです。しかし、この別帳会員とはいったい何だろうかと考えました。日本キリスト教連合会の会報には、教会の別帳会員の定義は次のように書かれてあります。プロテスタントでは「信徒が教会に関わらなくなった」というニュアンスに対し、カトリックは「手を尽くして探しても連絡のとれなかった信徒」となっているとのこと。考え方の違いがありますが、この違いは大きいと思います。それは教会を離れた信徒の問題とみるか、信徒にも問題があるがそれをあきらめずに関わっていくのだということでしょうか。何らかの理由で別帳会員なった信徒をもう一度招くとき、やはり手をつくして探しまわることが大切だと思いました。そのために訪問し、訪ねて、話をすることが求められています。できる限りそれをしていきたいと願っています。
イエス様は「見失った一匹を見つけ出すまで、探し回らないだろうか。」と言われました。探し回るのが当然だといわれています。神様はいつでも私たちを探しておられます。道に迷ったときでもそばに寄り添って御言葉を語ってくださいます。それは、大きな愛に支えられた神様の思いです。今日も、神様の大きな愛に支えられながら、今日のやるべき務めを果たしてまいりましょう。
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