ヨハネ 9:41 見えなかったのであれば、罪はなかったであろう。しかし、今、「見える」とあなたたちは言っている。だから、あなたたちの罪は残る。
イエス様によって、生まれつき目の不自由な人が癒されます。「見えなかったものが、見えるようになる」という奇跡を通して、神様の国が来ている事(イザヤ書の預言)が示されます。また、そこにおられるイエス様が神様の子であることも同時に示されます。しかし、ファリサイ派の人たちはそれを信じることができず、何度も本人に事情聴取をするのです。はじめから信じないのですから、奇跡と事実を受け入れないのです。
広島にいた時、ある居酒屋での出来事です。メニューに北海道の「ホッケ」がありました。いまや居酒屋メニューの定番ですから、これを注文することにしました。一人の牧師がお店の方に「このホッケは北海道のどこの?」と聞きました。すると「北九州のものです」と答えました。そんなはずはない。九州でホッケがとれるわけはないと「いや、北海道のどこでと聞いているんだよ。根室?函館?」と聞き返しました。すると「いやうちの魚はすべて北九州から来るので、すべて北九州産です」と答えていました。牧師は「いやそんなはずはない、北九州にホッケはいない」とまだ議論をしていました。隣で聞いていて可笑しくなりました。ただ、どちらも自分の考えをまげないということは分かりました。もしかするとホッケが北九州でとれるかもしれない。もしかすると、ホッケは北海道産か。とお互いが自分を改めてみることができないのでしょう。まず自分の常識を疑ってみる必要もあると思います。
イエス様の言葉に「見えないものは見えるようになり、見える者は見えないようになる」というのがあります。自分たちは「見えている」と主張するものには見えないことがあるのです。自分のことしか考えられない人たちも同じです。口語訳には「今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたの罪がある」となっています。「言い張る」という言葉に注目して今日を過ごしましょう。自分の罪を見つめた時、十字架の前で「私は正しい」と言い張ることはできないのですから。
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