本日は、ルーテル学院中高の朝礼奉仕でした。九州学院と同じ聖句で語らせていただきました。それぞれの学校の生徒にぜひ伝えたいことを話させていただきました。
ローマ 12:15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。
昨年の今日は東日本大震災被災地である宮城県石巻にいました。津波から半年がすぎ、何気ない出来事の中に人々の痛み・苦しみをそのまま受けることが多くありました。その深いところにある痛みに出会う時、私たちボランティアはどうしてよいかわからず、じっとしてそこに寄り添うだけしかできませんでした。今年の夏はハンドベル部のみなさんも現地に行ってくださったということで現場に立つことの意味を知られたと思います。
パウロは、キリスト教的生活の規範としていくつかあげています。愛すること、仕えること、希望をもつこと、祈ること等です。その中に、共に喜び、共に泣くことをすすめています。この共に泣くということの深い意味を突き付けられていたのが、ちょうど昨年の今頃だったのです。本当に共に泣くことってできるのでしょうか。
東日本大震災救援活動の中でとくに心に刻んだことは「親の思い」でした。私たちは児童74名教諭11名が津波で流された大川小学校の地域で仮設支援活動をしていました。ハンドベル部の皆さんもそこに身を置かれたと思います。大川小学校の前を何度も通るたびに、学校は学びの場である以上に、子どもたち命を預かっている場だと教えられました。その命を守り、育む責任があるとも教えられています。
震災後、慰霊碑には子どもを亡くされたお母さんの手紙が置いてありました。毎日毎日手紙が置いてありました。「100日たったいまも、会いたくて、会いたくて、会いたくて、会いたくて・・・」。こんなに深い思いを親はもっています。「○○ちゃん。あなたは一人ではポニーテールできなかったでしょう。いま誰にやってもらっているの」「おかあさんと一緒じゃないと眠れないでしょう。一人で寒くないの」「手紙をもらったら返事を書くことは約束だったよね。夢にでてきて返事くださいね」と。愛する子どもたちを天におくった親たちの愛の深さを感じます。「お父さん、お母さんはまだ悲しくて歩けません。でも少しずつ少しずつ前に進んでいかなきゃと思います」と。遺された親たちは、悲しみ苦しみを超えて前に進まねばなりません。その一歩を踏み出していただけるようにと、必死に寄り添うことしかできなかったのです。
パウロは「泣く人と共に泣きなさい」と教えています。いままで「共に泣いてあげる」という感覚でこれを読んでいたことに気がつきました。被災地で活動していると、共に泣くしかない状況に出会います。あまりにも悲しみが大きすぎて共に泣くしかできないのです。しかし、そのような関係を持たせてくださる中心にキリストがおられます。そこにイエス様が共におられるから、私たちも共に泣くことができます。支援なんて何もできませんでした。ただ必死に寄り添い泣いただけでした。共に泣くことは、寄り添うことによってできるのだと思います。
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