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マタイ 2:11 家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた。
クリスマスの時、東の方から3名の占星術の学者たちが星に導かれてベツレヘムにやってきました。救い主の誕生を知らせる星をみて御子を拝みにやってきたのです。ベツレヘムまでくると、星がある場所の上で止まりました。学者たちは大喜びで、星が泊った家に入ってみると、幼子と母アリアがそこにいたのです。そこに漂っている清楚な雰囲気が伝わってきます。 あるホテルの支配人が、若いころに指導を受けたことを話してくださいました。ホテルは「清潔である」だけではいけない。大切なことは「清潔感を感じていただけるか」だと。「清潔」と「清潔感」とは、同じようで全く違うことです。清潔であるには清掃を徹底させればいいのですが、それだけでは清潔のままです。そこにお客さんの気持ちを考え、心をこめて清掃する時に「清潔感」が生まれるというのです。清潔感とはそこに係る人の問題なのです。どれだけ心がそこに込められているかなのでしょう。 「家に入ってみると、幼子は母マリアと共におられた」。この一文の中に、クリスマスの祝福を感じます。この世に誕生した救いイエスさまの誕生が全世界に知らされる時、その最も中心には母と子の姿があるのです。この出来事のなかに、神様の清らかさを感じます。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
マタイ 2:13 占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」
ベツレヘムの聖誕教会から2分くらいのところにミルグリッドという洞穴があります。この洞穴の特徴は、洞窟の奥の奥まで真っ白だということです。エジプトへの逃避をする途中、母マリアの一粒の乳が、下に落ち真っ白になったという伝説があります。何となく美しい話です。しかし、幼子をつれての逃避行は、どんな気持であったかと思います。幼子を必死に守る聖家族の様子がうかがえます。 占星術の学者たちからイエス様の誕生情報を得ることができなかったヘロデは、ベツレヘムに住む2歳以下の子どもを皆殺しする残虐行為をしました。ヘロデという王様は、自己保身のためには、妻や3人の息子を殺したほどでしたから、ベツレヘムの幼児を皆殺しにするくらいは平気だったのでしょう。いまでもベツレヘムには子どもたちの遺体を保管した小さな穴が大量に残されています。そのような残虐な出来事を避けるために、生まれたばかりのみ子イエスは両親とエジプトに逃避するという難民生活をおくることになりました。もっと過酷な所に逃げよというのです。荒れ野の中を逃避する家族の過酷さを思います。 ある時「エジプトでは天気予報の必要はない」と、エジプトの友人が教えてくれました。いつも晴れているからだそうです。笑ってしまいましたが、良く考えるとそれだけ過酷だということでしょう。毎日が炎天下の中にあると思うと、今年の猛暑を思い出しました。「そのような過酷な状況にあっても、神様は人が生きていけるようにしてくださっているのよ」と、その人は教えてくれました。どんな状況にあっても神様が配慮してくださっているというというのです。 神様は「わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」と言われました。たとえ過酷な状況であっても、配慮してくださるということです。神様がきちんと逃れる所をしめし、守っていてくださる。み言葉を信じ、それに従う時、すべては守りのうちにあることを教えてくれるのです。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
ルカ 2:29 主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。
クリスマス主日が終わると、教会も1年のまとめに入ります。今年1年はみなさんにとってどのような時でしたか?喜びも悲しみも、楽しみも試練も様々なことがおこったことでしょう。しかし、それは私たちの人生の一部です、毎日変わる人生の出来事に中で変わらないものをみつけています。それは神様です。そして神様から与えられる信仰です。この信仰をもって1年を振り返ります。 幼子イエスをメシアと告白するシメオン賛歌で、クリスマスの出来事はクライマックスを迎えます。シメオンは幼子イエスを見たとき、イザヤ書の「主の栄光がこうして現れるのを肉なる者は共に見る」という預言の成就を見ました。神様の言葉が実現したことを見たシメオンは「お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます」と歌うことができました。神様による約束は必ず実現することを知ったからです。 京都の清水寺に、大西良慶という貫主がおられました。良慶貫主が書かれた本の中で「悟りとはいつ死んでもいいという覚悟ができた時」という言葉があります。100歳を超えての法話で語られたものです。良慶さんとして親しまれた老和尚の含蓄のある言葉に感銘を受けました。「ほっといたかて死によるんやから、死をおそれない」。すでに悟りを開かれていたのでしょう。なんだかシメオンと通じるものを感じました。 2012年も仕事納めがちかづきました。今年1年を振り返り、神様からの多くの恵みと導きがあったことに感謝したいと思います。私たちの働きは、神様の働きの中の一部分にしかすぎません。しかし、その一部分でも各自が誠実に関わって1年の終わりを迎えることができます。シメオンはいいます。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおりこの僕を安らかに去らせてくださいます。」今日1日はそのことを覚えて感謝のうちに1年の納めをしたいと思います。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
ルカ 1:28 おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。
クリスマスおめでとうございます。 クリスマスの最初の出来事である、受胎告知を思いだしてください。天使ガブリエルが最初に告げた言葉は「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」というものでした。なんと美しい言葉でしょうか。イエス様の母となられたマリアは世界一の幸せものです・・・。クリスマス礼拝を終えたいま、光り輝くクリスマスを感じておられることでしょう。確かに私たちは天使の大群から喜びの訪れを告げられました。 しかし、本当にそうでしょうか。私たちからみればマリアはとっても幸せ者です。神様の御子をこの世に誕生させてくださったのですから。ところが、マリア本人にとっては本当はどうであったでしょう。 実はこのことは処女マリアにとっては、ある意味で「傷」でした。結婚前に子供が与えられたのです。婚約者の知らないところで身ごもってしまった。誰も信じてくれない方法で。マリアにとっては「深い傷」となったのです。このため。マリアはこのあとこの出来事のために悩み苦しみます。結婚も諦めたことでしょう。一生この与えられた子供と生きる決心をしたかもしれません。しかし、それでもなお彼女はそれを我が身に引き受けたのでした。この傷こそ「聖なる傷」です。あのイエス様が十字架の上で受けられた「聖なる傷」と同じものだと思います。 本当はなにが「おめでたい」のでしょうか。イエス様をみごもったことでしょうか。もちろんそれもあるでしょう。しかし、本当におめでたいことは「主が共におられる」ということです。これにまさるものはありません。私たちも毎日「おめでたい」のです。なぜなら主が共におられるのですから。マリアの受けた「聖なる傷」が私たちをクリスマスに導くのです。天使は告げます。「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」。私たちもまた主が共におられるから「おめでたい」のです。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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