ヨハネ 15:15 わたしはあなたがたを友と呼ぶ
2年前、テレビで三木たかしさんの葬儀を放送していました。弔辞は萩本欣一さんでした。その弔辞の内容に少し驚きました。萩本さんは次のように語りかけたのです。「今日であなたと友はやめます」と。友達関係は終わりと言われたのです。その後「これからは先生です。三木先生」と。尊敬をこめてこれからの新しい関係に心から感謝されているような弔辞でした。普通なら「ずっと友達でいましょう」というところですが「先生」と呼ばれたところに2人にしかない特別な関係の強さ、尊敬、信頼をみることができました。きっと先生と言える友達関係がそこにあるのでしょう。
ヨハネ福音書にある告別説教でのみ言葉です。十字架での死を前にした、最後の晩餐の席上でのみ言葉になります。イエス様は、明日は死を迎えることを知っておられました。遺言のように語られた言葉で、弟子たちにむかってあなたがたは「僕(しもべ)」ではなく「友」といわれたのです。弟子たちは自分たちのことをどう思っていたのでしょう。もちろん「僕」と思っていたでしょう。イエス様のことは「先生、師匠」と考えていたかもしれません。それは、あたり前のことだと思います。しかし、あえて「友」と呼ばれたところに感動を覚えます。
昨日まで宮城県にいました。震災活動の継続としての訪問と卒業アルバム復興の支援金をお渡ししてきました。今回の訪問は3月に行われる九州教区「祈りと巡礼の旅」の準備もありました。13か所を選んで、そこで祈り巡礼しようというものです。閖上(ゆりあげ)から始めることにしました。小学校、中学校がおおきな被災に会い、生徒たちも流されて亡くなりました。そこに「死んだら終わりですか、生き残った私たちにできることを考えます」と使われていた机に書いてありました。一生の友達がそこにいるのだと思います。友達の死をとおして、きっと友達として友達以上の関係が与えられたのだと思います。
イエス様は「先生」と呼ばせず、「友」と呼べといわれました。イエス様の方から「友」と呼んでくださったのです。その関係の中におおきな神様の愛を感じます。私たちはイエス様を友としてよいと言われました。神様を友としていることは、なんと奇跡なことでしょうか。萩本さんが「先生」とよびながら、友であることを表現されたことに関係の深さをみることができました。
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