ルカ 6:43 悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない
ある時、庭の草取りをしていましたら、おもしろい草が生えてきているのに気づきました。これはきっと朝顔だなと思い、そのままにしていましたらどうも様子が違います。だんだん大きくなり、地面をはうようになりました。そして黄色の花が咲き、まだまだ伸びていきました。それからしばらくそのままにしていました。すると「スイカ」の赤ちゃんがついていました。朝顔と思って育てていたものは「スイカ」だったのです。どうしてこんなところに「スイカ」があるのでしょうか。誰かが植えたわけでもないのに。たぶん捨てられた種が芽をだし、実をつけたのだと思います。実をつけてそれが初めてスイカであるとわかりました。それがなければスイカだとわからなかったかもしれません。
イエス様は「実によって木を知る」という、たとえ話をされました。木はそれがどんな木であるかは、その実によってわかると言われたのです。「茨からいちじくは採れない」「野ばらからぶどうは集められない」。そこから、良い人は良いものを出し、悪い人は悪いものを出すと指摘されたのです。問題となるのは、外側に出てきたものではありません。その人の内面がどうであるかです。内なるものは必ず外にでてきます。だからこそ、見えない内面が大切なのです。
古代ギリシャの医者・哲学者であったヒポクラテスの言葉に「知りながら害をなすな」というものがあります。これを「プロの責任と倫理」と捉えた人がいます。牧師、医者、弁護士、その他どんな職業でも、顧客に対して必ずよい結果を出せるという保証はありません。最善をつくすことしかできないのです。しかし、「知りながら害をなさない」と、信じていただくしかないのです。どんな職業であれ、「知りながら害をなすな」が職務倫理であり社会的な責任なのです。
イエス様は「悪い実を結ぶ良い木はなく、良い実を結ぶ悪い木はない」と言われました。私たち自身がどうであるかを考えねばなりません。私たちはこの職場に、悪い実を結ぶように集められているわけでなく、良い実を結ぶように集められています。人々から信頼を受け、それに応えるためにも「知りながら害をなすな」の言葉をもう一度心にとめて今日を過ごしていきましょう。
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