九州学院で高校2年生の3クラスに聖書を教えることになりました。これまでも、ミッション系の学校に招かれて講演はさせていただきました。しかし、授業となるとまた違った緊張感を味わっています。キリスト教特別講演ならば、1回きりと覚悟をきめて、そこに集中して話します。授業は1年ですから、計画を立てなければいけないと考えています。
講演でもそうですが、授業では「おしゃべり」をされると困ります。内職や居眠りはその生徒の選択、自己責任でしょうが、おしゃべりは他の人に迷惑が及びます。最初の授業ではこの「おしゃべり」だけは慎んでくださいとお願いしました。さすがに、いまでは「おしゃべり」はありませんでした。ただし、それは授業を受ける側の礼儀でしょうから、なくて当然なのですが。それでは授業がうまくいくか・・・まあ想像の通りです。これは聖書の授業を受けたいと思っているか、自分にとって大切な科目かどうかなのでしょうね。聖書の話をしていても、15分もできればいいでしょうか。それ以上になると、気持ちが離れていくような気がします。そうなると当然眠たくなるでしょうから、教室全体はより静かになっていきます。
渡辺和子シスターが授業をされるときの初めに「礼儀」ということを言われていました。「内職をされるのなら、目障りではなくスマートになさってください」と言われていました。教える側にもマナーがあり、授業を受ける側にもマナーがある。それが礼儀を大切にすることと言われていました。聞くことにおける礼儀ということを教えられます。それと同時に、教える側に立つということの厳しさも感じています。
まあ、関心がないことに関心を向けていただくにはどうすればいいかの訓練を受けているみたいです。やり方はたくさんありますが、牧師ですので祈りによって進めていくしかないように思います。創意工夫・忍耐努力がひつようですね。