フィリピ 2:16 命の言葉をしっかり保つでしょう。
「お母さんの言葉は音になった」というエッセイがありました。幼稚園の頃は、お母さんの声は優しく、暖かい言葉だった。大きくなるにつれてすべてが命令になっていったというのです。「早く起きなさい」「勉強しない」「さっさと食べなさい」「風呂に入りなさい」「ぐずぐずするな」と。これらの言葉には愛は感じられずに、冷たい音が自分の上を通り過ぎるだけと言うような内容でした。お母さんも自分の言葉を音にするつもりはないでしょう。しかし、お母さんにも余裕がなくなっていると音の言葉になって行くのだと思います。しかし、お母さんだけがわるいわけではなく、家族としての会話の回復ができないかなと思います。
パウロは、神様の福音を「命の言葉」といいました。また、キリスト者として、福音という命の言葉をしっかり保つことが「誇り」であると教えています。この「福音」という一つのことに、パウロは全身全霊をもって働いています。全身全霊で働くことが保つということでもあります。福音は音と書きますが音ではありません。イエス様のみ言葉です。このみ言葉には命があるので、暖かい心が伝わってくるのです。
「言葉とは心の振動である」ということを聞きました。「好きだ」という心の振動があってはじめて、言葉として告白ができるというのです。振動ですから、音にならない言葉もあります。イエス様の御言葉も振動です。十字架という救いを、福音という御言葉の振動によって伝えてくださっています。この振動こそ聖霊の働きではないかと思います。心の振動を意識していないと、それはただの音になります。音では会話になりません。家族内ではなされる会話も、命の言葉としての心の振動を大切にしてほしいと願っています。
パウロは、「命の言葉をしっかり保つ」と言います。言葉には命があるのです。言葉は「心の振動を伝える」のです。「ありがとう」の一言が人を生かすのは、その「ありがとう」に心の振動が込められているときです。私たちはイエス様から「命の言葉」をいただいています。その「命の言葉」が、どんなときでも励まし、慰めを与えてくれるのです。
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