民数記 10:10 あなたたちの喜び祝う祝日、毎月一日には、焼き尽くす献げ物や和解の献げ物に向かってラッパを吹きなさい。そうすれば、あなたたちは、あなたたちの神の御前に覚えられる
自分はどんな人間でありたいか。結構「自分」を中心に考えることが多いものです。ところが本当は人にとって自分はどんな人間でありたいかを考えることは少ないものです。しかし、どう思われているかは非常に気になるのが私達です。現実の問題に一喜一憂しながらよりも、結局どんな人間として生きるかを考えた方がいいかもしれません。
旧約聖書の中で「ラッパ」は、会衆や指導者を集めるとき、出陣、祝祭のときに吹かれていました。単に合図を表す音というだけでなく、それによって「神の御前に覚えられる」ためであるというのです。これをしなさいと言われたのは神様でした。
ある本の中にあった話です。「私が13歳のとき、宗教の先生が『何によって憶えられたいかね』と聞いた。誰も答えられなかった。すると『答えられると思って聞いたわけではない。でも50になっても答えられなければ、人生を無駄にすごしたことになるよ』と言った」。「憶える」「覚える」は違うかもしれませんが、神様の御前に覚えられるというのは、記されたということでしょう。その意味では人間の方からは「憶えられた」ということになるといえます。
大切なことは、50歳になって神様の御前でどのような存在として立っていたいか、を答えられない人間であってはならないということです。私たちに与えられた使命は何か、それをなしてきたかを問われるのが50歳なのかなと思います。
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