ヨハネ 9:36 主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。
子どもの頃の思い出です。ある釜飯やさんにいきました。メニューをながめて「五目釜飯」を注文しました。すると3つ上の親戚のお姉さんは「鳥釜飯」を注文しました。料理が運ばれてきたときしまったと思ったのです。鳥釜飯が美味しそうだし、中に卵があったのです。それがほしくてたまりませんでした。最後には泣き落としで変えてもらった経験があります。今思うと申し訳ないなと思います。しかし、人の物はいつでもよく見えます。自分で決めていても、迷うのが人間だと言えます。
イエス様は、一人の目の不自由な男を癒されます。癒された出来事だけでなく、その後、ファリサイ派の人々との論争によって彼が正しい信仰に導かれる話しです。最初はイエス様のことを曖昧に話していたのですが、尋問されるにつけ徐々にイエス様が誰かということが彼の中で明確化されます。そしてファリサイ派の人々から追放されたときに、イエス様と再会するのです。
ビュリダンのロバという話があります。「餓死寸前のロバがいました。歩いていると幸運にも干し草の山を見つけました。ところが不幸なことにもう一つの干し草の山を見つけました。この2つの山は全く同じ大きさで、同じように美味しそうに見えました。ロバはどちらの干し草を食べればよいか迷いました。左に行きかけたが、そうすると右の方が美味しそうにみえるのです。右に行きかけたら今度は左の方が美味しそうに見えました。右往左往しているうちにロバは干し草の真ん中で餓死していました。」という話です。どうせ迷っているのですから、どちらを選んでもいいのです。どちらが美味しいかと考えずに、自分が決めた通りに進むしかないのです。
彼と再会したイエス様は「その方を信じたいのですが」という言葉を聞かれました。その後彼の言葉は「信じたい」ではなく、「信じます」という信仰告白に変わります。この2つの言葉の間にあるのは、イエス様がそこにいらっしゃるだけでした。右往左往しながらも、イエス様との本当の出会いによって最後には「信じます」と信仰告白をし、自分の生涯を決定したのです。
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