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マルコ 6:43 パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。
コンビニで大量のお弁当が捨てられるのを目撃しました。まだ食べられるものだと思いますが、会社のルールなのでしょう。娘のバイト先でも大量に残った食べ物を、バイトが持ち帰るのではなく廃棄処分となるとききました。いつもどうにかならないかと思います。食べ物を粗末にすると罰が当たると教えられてきました。捨てられる弁当を見るたびに、食物は神様が与えて下さる恵みなのにと思うのです。 イエス様の奇跡に、有名な五千人の給食があります。イエス様は大勢の群衆をみて憐れみ、み言葉を語っておられました。時間もたち食事の時間になりましたが、その用意がありませんでした。そこでイエス様は、「五つのパンと二匹の魚で大勢の群衆に食べ物を与えなさい」と弟子たちに命令されたのです。その結果、五千人以上の人が食べて満腹し、残りは十二の籠にいっぱい残ったというのです。 市ヶ谷周辺は、早朝にゴミ収集車がやってきます。毎日大量のごみがでるのでしょう。朝から何回もこの周辺をまわっているみたいです。大変な作業です。私たちは毎日どのくらいのものをゴミとして出しているのか。その作業に感謝しながら眺めていました。するとゴミ収集車のうしろに大きな字で「もったいない」と書いてありました。かなりインパクトがありました。この言葉が町内の掲示板に書いているのと、ゴミ収集車に書いてあるのとでは大きな違いを感じます。大量のゴミは果してゴミなのか。ゴミでないものをゴミにしてしまっている。そんな「もったいない」ことをしてはいないか。そう問いかけられた朝でした。 イエス様が、五千人の群衆を五つのパンと二匹の魚で満腹されたとき残ったものがありました。しかしそれを人々はどうしたでしょうか。翌朝生ごみとして捨てたでしょうか。きっとイエス様が祝福された食物として持ちかえり、大切に食べたのでないかと思います。イエス様の手が触れ、祝福された食べ物だからです。そう考えるとすべての食べ物は神様が造られ、神様の手が触れています。無駄にしてないかと問われています。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
ヨハネ 6:35 わたしが命のパンである。
私の焼いたパンを食べた方から質問されることがあります。「ケーキは作らないのですか」と。実は性格上、ケーキは自分では向いてないかなと思います。パンは基本的に粉と水とイーストがあればできます。また分量もアレンジして作ることができます。しかしケーキはきっちりと分量を量り、材料をきちんと揃えなければと思ってしまうのです。パンは独創的になれますが、ケーキは理論的でなければと思うと、やっぱりパンを焼く方が向いているというのが結論です、 イエス様の有名な言葉です。群衆はカファルナウムからイエス様のもとに押し寄せてきます。しかし、イエス様を神の子と信じたからではありません。イエス様は「あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」と言われました。5000人の給食のあとの出来事で、群衆は肉体の糧を求めているのに対し、イエス様が与えようとしておられるのは、永遠の命にいたる糧(命のパン)であると言われたのです。 「会議は論理的でなければならない」という言葉を聞きました。ある講演での話です。その講師は「最近の会議では『思いつき意見』が多すぎるというのです。思いついたままを言うと、それに対して思いつきの意見がでる。それに対してまた思いつきの反論をする。これでは子どもの言い合いになってしまう。議論は思いつきではなく、論理的にしなければというのです。その論理的というのは、簡単にいえば次のようなことです。結論→理由→根拠で述べることです。言い方では「・・です」「というのは・・」「たとえば・・」の順で話すのです。まず結論をのべることで、会議が変わると教えられました。 イエス様の言葉もその通りです。まず結論として「わたしが命のパンである」と言われています。そのことをまず受け取り、その次にではなぜそうなるのかを聞いていくのです。イエス様の教えが心に強く残るのは結論がはっきりしているからです。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
マタイ 10:10 旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない。
引越しの準備をしています。あまりにも持っている物の多さに、驚いています。5ケ月あまり娘と仮暮らしをしていますと、食事に必要な食器は6個もあれば十分だとわかりました。しかし、段ボールの中にはありとあらゆる種類の食器があります。料理によって使い分けるのでしょうけれど、基本的にはいらないな~と思ってしまいました。どうしたらシンプルに生きていけるか。だんだん年齢を重ねてくると、シンプルという言葉に憧れを持っていることに気がつきます。 イエス様は12弟子を選ばれたあと、彼らを宣教へと派遣されました。彼らを派遣するにあたり具体的な行動と忠告を与えておられます。基本的には、「宣教の旅には何も持って行くな」ということです。神様がすべて用意してくださっているということもあります。弟子たちは行く先々で人々を教え、病気をいやし、神様の平安があるようにと祈れと言われたのです。 テレビで日本縦断をしている方々が紹介されていました。手押し車を押しながら歩いている2人。車いすで、友達に協力してもらいながら沖縄を目指す大学生。ガンの病をきっかけに、家族の記憶に残るためにマラソンで縦断しているお父さんと家族。「旅」というテーマだったのですが、それぞれにかけがえのない何かがそこにあるのだと思いました。旅といえば、豪華なホテルに泊まり楽しい計画をしたいと思います。しかし、この人たちも「自分でつかう時間」を豊かに持っているのだと思います。与えられた時間を、自分で使い、やることがある。これは豪華というか豊かなことです。信仰者はそれを自分のために使うのでなく、神様のために使うというのですから、もっと豪華なものです。 イエス様は「旅には袋も二枚の下着も、履物も杖も持って行ってはならない」と言われました。旅する時に持たなければならないものは多くはありません。目的と時間だけだと言えます。与えられた時間を神様のために用いること。それが宣教です。弟子たちは何も持ってないようで、信仰と時間を持っています。充実した旅だったことでしょう。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
マタイ 23:24 ものの見えない案内人、あなたたちはぶよ一匹さえも漉して除くが、らくだは飲み込んでいる。
人生相談のために教会を訪れる方がおられます。相談というより、話をお聞きすることが多いのですが。その中に「自分はすべてわかっている」と言われる方がいます。その方には何を言っても「わかっている」「知っている」としか言われません。そうであるならば教会に相談に来なくてもいいのにと思います。きっと寂しいのでしょう。誰かに話を聞いてもらいたいのでしょう。だとするならば、ほんの少し謙虚になればさみしい思いもしなくていいのにと考えてしまいます。 イエス様は、律法学者やファリサイ派の人々に対して、あなたがたは「偽善者」であり「不幸」であると繰り返し告げています。彼らに、「あなたがたは、ものの見えない案内人である」と厳しく非難しておられるのです。彼らが「言うだけで実行しない」からでした。人には重荷を負わせておきながら、自分たちは正しいという態度を非難されたのです。7項目にわたる不幸の宣告と、その理由が述べられています。すべて彼らは何をしているかわかってないことが原因なのです。 ブッダの教えに、「私は知っている」と思っている人は愚か者。「私は知らない」という人は愚か者でない。と言う言葉があります。「私は正しい」という考えに固執したら、他人の意見を聞こうとはしません。それは、自分の振る舞いをなおすことはしないということです。「私は知っている」「私は正しい」と言い張る人には、もはや教えてくれる人や、協力してくれる人は現れません。結局は仕事が出来なくなり、自分を苦しめることになるという教えです。「私は知らない」「私だけが正しいわけではない」という思いが人を成長させ、よりよい人間関係を築いていくのです。それが賢さだと教えているのです。 イエス様は、自分たちが正しいと思っている律法学者やファリサイ派の人々に「偽善者」といわれました。また「ものの見えない案内人」と言われています。自分の考えばかりに固執していると、大切なことが見えない。大切なものが見えない人たちが教えることは、小さなことに執着するが大きなことは見逃してしまうといわれたのです。<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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