マルコ 15:14 ピラトは言った。「いったいどんな悪事を働いたというのか。」群衆はますます激しく、「十字架につけろ」と叫び立てた。
牧師は教会で働いていると、一国一城の主と思っています。自由に時間を使って、仕事も決めて、自由が牧師にはあたえられています。だからこそ「何をするか」が一番大切です。ところが社員や部下はいません。いわゆる管理職ではないのです。ここがまた難しいところです。何もしなければそれでいいとおもってはいけません。イエス様という存在が共におられるからです。
イエス様は、ローマ総督のピラトのもとで裁判を受けられました。このピラトが死刑の判決をくだしたのです。ところが、最後まではっきりしない態度をとっています。「一体何か悪いことをしたのか」という問いと「群衆を満足させるために」イエス様をムチ打って群衆に引き渡しています。「引き渡す」ということで死刑の判決を下したのです。これは判決という決め方ではなかったと言えます。責任転嫁とも受け取れる行為でした。
組織の中で、みんなからどうでもよいと思われている管理職を、英語では次のように言うそうです。「laying duck」(カーニバルなどで、ぐるぐる回りながら出てくるアヒルを、お客さんが設置された銃でアヒルめがけて打つ。あたればそのアヒルは倒れて横になったまま何もしないで、ただぐるぐる回っているだけになる。何の役に立たないの意味)。面白い表現ですが、とても言い当てているなと思います。倒れたまま何もせずにぐるぐる回っているという表現は、決定もしない、指示もしない、しかしそこに存在だけは置いていたいというようなかんじでしょうか。
ピラトは総督でありながら決定を下すことを引き延ばしました。イエス様をなんとか釈放しようと務めたようにも見えます。しかし、群衆に気に入られるように考え方をコロコロかえたようにも見えます。結局最終的には「引き渡す」という事で十字架を決定しました。しかもイエス様の血には責任がないと言っています。神様の御心が何であるかをピラトが知ることができれば、どんな存在として群衆の前に立ったことでしょうか。上に立つものは、神様の御心に従って決定をくだしてこそリーダーなのだと思います。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
最近のコメント