ロ-マ 4:20 彼は不信仰に陥って神の約束を疑うようなことはなく、むしろ信仰によって強められ、神を讃美しました。
教会の結婚式で、説教題を何にするか考えたことがあります。たいてい「約束を大切に」とか、「約束がふたりを支える」が多いです。最近では「約束を信じて」とか、「約束を守り続けて」「約束を土台に」とします。キリスト教の結婚式の中心は約束にあり、結婚式はその約束に神様の祝福を祈る式だからです。
この箇所には「信仰によって実現される約束」という見出しがついています。パウロは、アブラハムの物語を述べながら、「信仰によって義とされた」こと、それによって「神様との約束が交わされた」ことを記しています。神様がアブラハムと約束されたことは、彼に「多くの子孫を与える」「土地を与える」「祝福の基とする」でした。アブラハムはこの約束を信じて歩んだのです。
保育所の園長先生が保護者に向かってよく言っておられました。「子どもにはできない約束はしないでください」と。たしかにできない約束はしてはいけません。ただし、子どもが泣いているとどうしても「今日は早く迎えに来るから」と約束してしまいます。その場をなんとか納めようとしていう言葉ですが、それを聞いた子どもは「約束」ととらえます。これが約束になったときに、早く迎えにこれなかった場合は親を信じることができないようになるのです。約束は守ることができるときにしかしてはいけないのです。
パウロは、約束を疑うことは「不信仰に陥って」と言っています。また、アブラハムの確信をとおして、それが神様に義と認められたと言います。アブラハムの確信とは、「神様は約束されたことを守る」ということを信じることです。ですから、約束を疑うことは不信仰なのです。私たちは神様とどのような約束をしているでしょうか。その約束を神様は徹底的に守られます。約束を守られる神様だからこそ、私たちを救いへと導いて下さるのです。約束の成就が「十字架」だったのです。
(本日は録音がありません。音声説教はお休みです。)