マタイ 5:3 心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
鳴門の渦潮を見に行ったことがあります。ちょうど今頃のことでした。本当の目的は大塚美術館に再現されたシスティーナ礼拝堂とダビンチの最後の晩餐の修復再現されたものを見にいくことでした。しかし、ついでにいった渦潮観光がたのしくて見とれてしまったのです。そのとき教えられたことは、海に落ちたら動くなということと、必ず渦潮の中心に人はいくことになっているのでそこにじっとしているだけでよいということでした。中心にいろが教えられたことです。
イエス様が語られた山上の説教の始めの部分です。マタイによる福音書では、8つの祝福が語られます。その8つとも最初に「幸いである」が繰り返されます。イエス様の語りかけは、最初に「幸いである」「祝福がある」と言われるのです。この最初に「幸いである」と言われていることに注目したいと思います。
「会議での発言」というエッセイをよみました。会議で発言するときは「思いつき発言をやめる」ということが鉄則のようです。思いつき発言には、思いつき反論がでて、会議が子どもの言い合いになってしまうからです。会議での発言は、論理的に意見を述べることで議論が成立します。論理的発言とは何でしょうか。人は、「背景や経緯から話したい」という意識を持っています。これが議論をややこしくするそうです。結構言い訳がおおいからです。ということで一番大切なことは「結論からのべる」です。会話でも、英語を聞いていると先に結論がきこえてきます。日本語は最後まできかないと結論がわからない仕組みになっています。
イエス様は、直訳すれば「幸いだ、心の貧しき者たち」と言われています。初めに結論「幸いだ」を言われているのです。神様が「幸いだ」と言って下さる。だから私たちはどんな状況にあっても「幸い」なのです。こうだから、ああだからではなく、まず結論をしっかり持つことが大切です。神様が「幸い」と言って私たちを祝福していてくださる。これが人生の結論だと思います。
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