ヨハネ 8:43 わたしの言っていることが、なぜ分からないのか。それは、わたしの言葉を聞くことができないからだ。
牧師として説教壇に立つたびに、心の中にある子供の声が聞こえてきます。それはいつもこう語りかけてくるのです。「先生は自分の話を自分で聞いて面白いと思う?」。この言葉を忘れることはできません。まだ神学生だった時、教会学校の生徒に言われた言葉なのです。しかし、感謝して忘れることができない言葉なのです。自分が語ることを会衆になって聞いてみるとき、福音として聞けるかどうか。自分の話は自分にとって福音かと問うてみるのです。自分で聞いていやになる話は、人が聞いたらもっといやになるはずです。それは説教だけの問題ではありません。親子の間、友人との間でもおこることです。娘にぐちぐちと怒っている自分が、もし反対だったらと思うとゾッとします。たぶん「もうわかったからやめて」というかもしれません。
イエス様のみ言葉に対して、ユダヤ人たちは「わたしたちの父はアブラハムです」と言っています。イエス様はその言葉に対して、痛烈な批判をされています。信仰の父アブラハムの子ならば、私を信じるはずだというのです。ところがユダヤ人たちは、イエス様を殺そうとしています。イエス様のみ言葉を聞くことができないのは、イエス様の言葉に反応し、自分たちの答えを押しつけようとするからです。
「聞く」というテーマの本に、次のような文があります。「話しているとき、ほとんどの人は、理解しようとして聞いているのではなく、答えようとして聞いているのだ」。聞くことは本当に難しいことです。相手を理解したいということが、聞くことの中心であるはずです。ところが自分もそうですが、なんとか答えようとして聞いています。答えなければいけないとも思います。しかし、話すほうとしては「聞いてほしい」が一番大切で、答えてもらうことは重要ではありません。なぜなら、答えは自分がだすものだからです。
イエス様は「わたしの言っていることが、なぜ分からないのか」と言われています。「わたしの言葉を聞くことができないからだ」と言われました。答えをもって人の話を聞くことはできません。答えを与えようとして聞くことは、聞いていないことと同じです。相手の立場にたってただひたすら聞くことができれば、それだけで答えは与えられていくのです。聞くことの豊さを学んでいきたいと思います。
<音声朝礼拝は「神様の色鉛筆」でどうぞ!>
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