2コリント 5:15 その一人の方はすべての人のために死んでくださった。その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです。
新聞に、ある交通事故の記事がありました。大分県の国道57号線で、ブタ三七頭を乗せたトラックがガ-ドレ-ルに激突し、二・三回転のすえに荷台のシ-トが破れてブタたちが外に吹き飛んだといものでした。ブタ三頭は車の下敷きになり死亡とのこと。ここまで読んでみれば普通の自動車事故ですが、この車は食肉センタ-に向かう途中の事故だったのです。つまりブタにとっては死ぬのが早かったか遅れたかのことでした。私たちの人生も毎日が死へ向かう車に乗っているようなものです。だれもそれを止めることはできません。そのような車に乗っているのなら、運転を自分でされるのもよいでしょう。信じることのできる人に運転してもらってもいいです。
イエス様だったら喜んで運転してくださいます。その車に私は乗りたいと思います。自分は事故を起こさないという人に限って危ないものです。イエス様の運転ならば間違いなく安全運転で目的地(神様のもと)までいけるのです。
パウロはキリストがすべての人のために死んでくださったと教えています。その目的は何か。キリストと共に「新しい人」としてキリストのために生きるためだと言います。生きる目的は、キリストのために生きることなのです。それがパウロの心を駆り立てています。
「よくある会議」という項目を読みました。「参加者が多い」「とにかく長い」「誰も発言しない」「目的がよくわからない」「司会の話が長い」「発言は活発だがまとまらない」「結論がない」。よくある会議といわれても、これは自分たちの会議の事を言われていると思いました。どの会議でも目的のない会議はありません。しかし、この目的を参加者全員が確認しているかどうかです。もっと簡単にいえば「なぜこの会議をひらくのか」を問わなければなりません。もしそれができない「よくある会議」ならば、それは時間の無駄と言うことになります。事務局長であった4年間の会議を振り返ると、「よくある会議」があったと反省しています。
パウロは「その目的は、生きている人たちが、もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きることなのです」と言っています。キリストの十字架の意味と目的をはっきりしめしているのです。この目的のためにキリストにあって「新しい人」として生きることが神様の御心です。
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