マタイ 26:42父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。
本日は広島原爆祈念式が行われました。14年間にそこに身を置き生活した者として、熊本でその朝を迎えることに少し不思議な気持ちがしています。熊本でも8時15分にサイレンが鳴りました。毎年この時間は広島教会で祈りをささげていました。そして7日に、人が少なくなった原爆供養塔で祈ってきました。しかし、どこであれイエス様が言われた「平和を実現する人々は幸い」とのみ言葉がいまもここにあります。
ゲッセマネの園は、エルサレムから谷を隔てて東側の小高い丘にあります。十字架の出来事が近づいたことを知っているイエス様は、ここで3回に及ぶ苦しみに満ちた祈りをささげられました。マタイ福音書には「悲しみにもだえ」「死ぬばかりに悲しい」という表現もあり、これが「イエス様にとって苦しみの時だった「ことをしめしています。
あるとき子どもキャンプで「平和の木を植える」というテーマで、子どもたちにできる平和の実現を考えました。原爆投下後の焼け野が原に世界から6000本の木が贈られてきました。再び軍事都市になることをやめ、自然豊かな緑の街を建設しようと考えてのことでした。こどもたちもこの木を植えることを手伝ったのです。キャンプでは過去を学び、現実を知り、未来に希望をもつことを中心にしてあります。平和はすでにあるだけのものではなく、また平和を守るだけではなく、平和を保ち、平和を実現していく。そして平和を創造していくことを学びます。子どもたちは平和を創造することの第一歩は「てをつなぐ」ことからできると発表していました。苦しくても手をつなぐことからです。
イエス様の受難は、平然と受け止めることのできる事柄ではありませんでした。イエス様も迷い、苦しみ不安に陥り、孤独に悩みながら、しかしなお選びとられたものでした。この時、神様からの言葉はなにもありません。しかし、イエス様は「御心のままに」と祈られました。苦しみの中で神様に祈るイエス様をとおして、私たちがいま考えなければならないことは何かを問われています。