1ヨハネ 5:14 何事でも神の御心に適うことをわたしたちが願うなら、神は聞き入れてくださる。
アメリカの心理学者ダイアーという人が「成功者となった人の共通性」というものを書いています。その中のひとつに「願望を持った瞬間から頭脳や肉体が自動的に作動する」というものがあります。願いをもった瞬間から人間はそれにむかって知らないうちに一歩踏ふみ出しているというのです。だとすると、何を願うかはとても重要なことです。健康になりたいと願うなら、その瞬間にどうすれば健康になれるかと脳が自動的に動き出すのです。ですから願うことを間違ったときには大変なことになります。お金の亡者とか、自己中心ということは、それを願った結果、自動的に自分が作動した結果なのでしょう。 ですから、何を願うかが一番大切です。
ヨハネは手紙の中で「願う」ことについて教えています。何を願えばよいかといえば「神の御心に適うこと」です。本来私たちが願わねばならないことは、自分が生きているこの社会の中で何が神様の御心であるかを考え、それを願うことだといえます。 イエス様もゲッセマネの園で「御心のままに」と祈られました。祈りとは願うことですが、自分のことばかりではなく、御心を願うことが祈りになります。
ある時一人の姉妹が「どうして牧師に祈ってもらわんの」いう言葉に驚いたことがあります。そういえば「このために牧師先生祈ってください」とお願いされたことはあまりありません。私たちは祈りをお願いするということが少ない。「それぞれ祈り方が違う」「祈りとはそんなものではない」「祈ってもどうにもならない」という言葉をよく聞きます。しかし、私たちは追いつめられ、どうしようもない状態になったら、祈らずにはおれないのです。祈りの力を知らない。祈ることの素晴らしさに気がついてない。祈ることはキリスト者の命です。そして自分のことだけでなく、教会のために祈ることは、教会の命です。牧師のために祈ることは宣教の命です。状況は厳しければ厳しいほど、私たちは祈らざるをえません。しかし、祈りは、神様の御心にそってきかれるのだ、という信仰を持っています。願いも祈りです。
ヨハネは「神様の御心に適うことを願うなら、神様はかならず聞き入れてくださる」と教えています。これは確信してよいことです。しかも、その願いを持った瞬間から、私たちは自動的に神様に導かれて動き始めている。だから、「願ったことはすでにかなえられたと信じない」と聖書は教えているのでしょう。神様のみ心に適うことは何でしょうか。それは神様に祈りで聴くしかありません。
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