ヨハネ 8:12 イエスは再び言われた。「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ。」
「あなたは何者か」と問われた時、自分は何と答えるだろうかと考えたことがあります。きっと名前、職業を話すと思います。しかしそれは私の本質を言い表しているか?きっとそうではないでしょう。自分がいったい何者かということを自分が一番知らない。むしろ見ようとしていないかもしれません。自分は何者かという答えは「あなたにとって」ということを抜きにしては答えが出ないものです。自分にとって自分は何者かと考えると答えなど出せなくなってしまいます。
ヨハネによる福音書の特徴として「わたしは~~である」というイエス様の言葉があります、「私は良い羊飼いである」は特に有名です。これはギリシャ語の「エゴ・エイミ」という言葉です。本日の「わたしは世の光である」というイエス様の言葉は、ユダヤ人の不信仰から論争が起こり、罪の赦しを与えるイエス様は一体誰かということでした。しかし、「世の光」という特別な言い方をして、本来の救い主とは何者かをはっきりさせられたのです。ある意味、私たちにとっては一番わかりやすい表現です。
露天風呂に入ると、空を見上げることが多くなりました。いままであまり関心は無かったのですが、神様が造られた世界の大きさ、美しさをあらためて知らされた思いです。どこかに生命をもっている星があるかもしれません。宇宙から私たちをみたら、どのようにみえるのでしょうか。太陽も三十光年(一秒間に三十キロすすむ光で三十年かかる)の距離から眺めると、四等星位の暗い星にしか見えません。ですから天の川は、銀河系のなかにある無数の太陽の群れなのです。そんなに太陽があるのに、地球みたいな星がなぜみつからないのでしょうか。それはあまりにも遠すぎて、人間の造った望遠鏡や機械では見ることが不可能なのです。それでも光は届くのです。
イエス様は「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」と言われました。光であるイエス様が共に歩んで下さる。その時に私たちは「命の光を持つ」ことになります。イエス様は何者か、それは私たちの光であり、命の光です。その光に従って生きていくのが信仰者の務めです。神様とは奇跡を起こしたり、裁いたりというだけでなく、私たちの命の光であるということを受け止めておきたいと思います。
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