1テサロニケ 5:9 神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです。
「神様を信じたらいいことがあると思ったら、悪いことしかおこらない」と訴えてきた人がいます。確かに神様を信じることによっていいことばかりはありません。むしろ都合の悪いことばっかりかもしれません。なぜなら神様を信じると「自分にとって都合の良い」ことばかりは起こらないからです。むしろ反対に、神様から与えられた道を歩くために、悔改めの道を与えられるのです。しかし、それは私たちを救いへと導くためなのです。
テサロニケの人への手紙は、聖書の中でも最初に書かれた手紙です。教会はそのとき迫害と試練のなかにありました。そのような中でパウロは「感謝する」という言葉からこの手紙を書き始めています。また有名な言葉「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい」という言葉で手紙を締めくくっています。試練や迫害の中にあってもイエス様が共にてくださることを証しするのです。本日の箇所も、神様は私たちを怒りに定めるのではなく、なんとかしてイエス様の十字架によって救うために働かれるというのです。それは人々の試練や苦しみをよく知っておられるからです。
あるとき、一人の姉妹の左手に包帯があるのにビックリしました。お聞きすると、寒い日に地面が凍っていて、そこを通るとき足を滑らせたそうです。とっさに手をついた時、左手の小指を骨折されたのだそうです。とても痛そうでした。ところが、骨折されているのにとても明るいのです。姉妹が言われるのは骨折したのは痛いけれど、「右手でなくてよかった」「手首でなくてよかった」「旅行のあとでよかった」といわれるのです。人生は考え方次第で明るくも暗くもなります。コップに半分の水が入っていても、ある人は「半分しか水がない」といい、ある人は「半分も水がある」といいます。同じものでも見方が違うのです。私たちはどうせみるなら積極的な見方、プラスになる見方をしたいと思います。試練や失敗があっても、この試練・失敗は神様が何かを教えてくださるためのものと思い感謝できたらと願います。
パウロは「神は、わたしたちを怒りに定められたのではなく、わたしたちの主イエス・キリストによる救いにあずからせるように定められたのです」と教えています。大きな試練や苦しみの時でも、イエス様は共にいてくださいます。何とかして人を救いに導くために寄り添っておられます。「あなたの痛みを知っている」とイエス様は言われます。そのみ言葉に救われるのです。神様は私たちを救いに導くために、今日も十字架の上から声をかけてくださっています。
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