1ペトロ 1:23 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。
仏教寓話集の中に次のような話しがあります。
「あるところに、愚か者がすんでいました。あるとき、なまのゴマを食べてみると、ちっともおいしくありませんでした。そのつぎに煎って食べてみますと、それは大そうおいしく食べられました。そこで、煎ったゴマの種子をまいたら、なまの種子をまくよりおいしい実があるだろうと思って、なまの種子のかわりに煎った種子をまきました。さてどうなったでしょう」。昨日運転中に「いったいこの愚か者の何が愚かなとこか」と考えていました。そんなことを考えて運転している自分はもっと愚かかもしれないのですが。いざ、考えてみますなかなか、何が愚かなことかがみつかりません。簡単にいえば、煎ったゴマでは芽がでないことを知らないことの愚かさです。しかし、根本にある愚かさがあるのではないかなと思ったのです。「なまのゴマではおいしくないが、煎ってみたらおいしかった」ところが、そもそも間違いの始まりです。自分に都合がよいときに、人は愚かな道へと進んでいくのではないかなと思います。煎ってみておいしくなったのは、なまのゴマがゴマであったからなんですね。根本にある確かさは、はじめのなまのゴマにあるのです。それを知らない、気がつかないところが愚かなんだと思います。
ペトロの名がついた手紙は2つあります。本日の箇所は「聖なる生活をしよう」という表題がついています。「いつでも心を引き締め」「身を慎んで」と。しかも「生活のすべての面で聖なる者となるように」と教えます。そのような生活がいまの私にできるかどうか。ペトロはできるという確信のもとに教えられています。それは「朽ちない種」「神の生きた言葉によって」私たちの「いま」があるからです。
ある幼稚園を訪問しました。園長先生の交代とともに、教育方針の改革をおこなったことを知っていました。その改革とは、園庭を自然に戻したのです。もともと森の中にあった土地を開墾して広場をつくったのですが、その運動場に再び木を植えて森にし、森の中の幼稚園にされたのです。子どもたちが森の中で遊んでいる様子が新鮮でした。その園長先生から不思議な話をききました。種から植えて育てた木と、植林した木では育ち方や力強さがちがう。種から育った木は「育つ力があり元気」、植林した木は「順応するために力をつかうから育ちが悪い」と。種から育つことの意味を教えられました。
ペトロも「種」を問題としています。この「種」は朽ちないもので「神の変わることのない生きた言葉」によると言うのです。私たちにはこの「種」が与えられています。この種に力があることを受けとめでいきてまいりましょう。
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