マルコ 4:8 ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。
P.F.ドラッガーの本で読んだ話です。私たちの衣料にとって欠かせないのがファスナーです。これはもともと海上輸送用の穀物袋のために開発されたものでした。衣料用としては考えてなかったのです。ボタンの代りになるとは誰も思わなかったからです。また開発者も衣料で用いられ普及するとは思わなかったのです。しかし、いまの衣料にとってファスナーはなくてはならないものです。その普及はものすごいものがあります。
イエス様が語られた「種まきのたとえ」です。種がまかれ、いろいろな場所に落ちます。道端、石地、茨の中。しかしどれも芽をだしますが成長も、どれも芽生え、育って、実を結ぶこともできませんでした。しかし、「よい土地」に蒔かれた種は、百倍にもなったというたとえです。問題は種ではなく、どこに蒔かれるかです。そして私たちは「よい土地」が何であるかを考えねばなりません。
禅の本に次のようなことが書かれてありました。あるとき仙涯和尚のもとに人がきて、「なにかめでたい言葉を書いてください」とたのみました。仙涯和尚はほいきたとばかりに筆をとり、スラスラと書き上げました。そこには「祖死父死子死孫死」と書かれてありました。さて、頼んだ人は「これはひどい言葉だ。こんな縁起の悪いものはない」と怒って帰ってしまいました。みなさんはどう思いますか。同じように縁起悪いと考えるでしょうか。仙涯和尚はそれを聞いて次のように諭したのです。「何が縁起が悪いものか。まず爺さんが死ぬ。次ぎに親父が死ぬ。次ぎに子どもが死んで、最後に孫が死ぬ。順序ただしく死んでいけば、家中に若死にするものはない。こんなにめでたいことはない」と。私たちはつくづく考えることの多い者です。そして言葉の多い者でもあります。神様からくださる恵みは、むしろ簡単なことなのだと教えられました。人が勝手に作ったものは、知識を刺激しても心は打ちません。「春に花が咲き、秋には葉が落ちていく」という自然のいとなみの方が心を打つのです。自然の流れの中にいるとき、神様の恵みをひしひしと感じます。あたりまえのことが素晴らしいのでしょう。
イエス様は「よい土地に落ち」ということを言われます。与えられた賜物はそれだけに使うのでなく、もっと別のよい土地があるかもしれません。み言葉は一方的なものではなく、どんどん広がっていきます。その広がりを止めているのは自分かもしれないと思いました。いろいろな角度からみ言葉を読んでみると意外な救いがえられるような気がします。
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