ガラテヤ 5:14 律法全体は、「隣人を自分のように愛しなさい」という一句によって全うされるからです。
次のような話があります。目の不自由な人が夜遅く友人の家から帰ろうとします。すると友人は灯りのついた提灯を渡します。その人は不思議に思い「目の不自由な私には提灯はいりません」といいました。すると、「あなたには提灯はいりませんが、あなたが持っていないと、目が見える人があなたに気がつかずぶつかって危険かもしれません」と教えてくれたという話です。自分ではなくと言うところに愛を感じます。
イエス様の教えで基本的なものは「神様を愛する」「隣人を愛する」の2つです。ルカによる福音書では、律法学者の「何をしたら永遠の命を受け継げるか」との質問に、この2つを答えられました。ただ、新共同訳と口語訳(1955年)ではちょっと言葉が違います。口語訳では「自分を愛するように、隣人を愛せよ」とあります。この「自分を愛するように」にという言葉にちょっと戸惑いをかんじていました。ただ手紙の最後には「ご自愛ください」と書きますが。自分を愛することが先にあることに、違和感があるのです。
牧師として説教壇に立つたびに、心の中にある子供の声が聞こえてきます。それはいつもこう語りかけてくるのです。「先生は自分の話を自分で聞いて面白いと思う?」。この言葉を忘れることはできません。まだ神学生だった時、教会学校の生徒に言われた言葉なのです。しかし、感謝して忘れることができない言葉なのです。自分が語ることを会衆になって聞いてみるとき、福音として聞けるかどうか。自分の話は自分にとって福音かと問うてみるのです。これは私の説教の原点です。自分で聞いていやになる話は、人が聞いたらもっといやになるはずです。それは説教だけの問題ではありません。親子の間、友人との間でもおこることです。娘にぐちぐちと怒っている自分が、もし反対だったらと思うとゾッとします。たぶん「もうわかったからやめて」というかもしれません。「自分を愛するように隣人を愛しなさい」とイエス様は言われます。隣人を自分と見ることができるか。それは大きな問いでもあります。
自分を愛することは自分のためではありません。隣人を愛するためです。自分を愛する愛し方を分かっている人は、隣人をどのように愛するべきかを知っているのです。「ご自愛ください」とは、あなたが病気になると、家族や共に生きる方々に迷惑がかかるからです。自己愛で自分勝手に生きて行きなさいという意味ではなのですね。
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