ヨハネ 5:17 わたしの父は今もなお働いておられる。だから、わたしも働くのだ。
20年前のこと「全国聖書日課」が来月で廃刊になるという知らせがありました。それではということで、執筆者に一週間で書いて下さいとやや無謀なことを言って自費出版しました。それが好評だったので、いまでも続いています。その時ある牧師は「今回もまたやっつけ仕事だったね」と感想を述べられましたが、私などは反対に、時間がなかったという緊迫感が聖霊の力を生んだのだと思う位です。若い牧師たちの日課を読めば、その先生のとっておきの話が書かれてありました。与えられた仕事を「やっつけ」でしなければならないことも多いものです。むしろ私たちの日々の生活も「やっつけ」でしかないのかもしれません。しかし、与えられた仕事を時間がなくても、これ以上はできないという緊迫感のなかで出来たとすれば、それは「やっつけ仕事」ではなく、その人の存在がそこにある仕事となるのだと思います。
イエス様は羊の門(エルサレム)のそばにある「ベトサダ」の池で病気の人を癒されます。この池は間欠泉と言われており、たまに水が動くことがありました。人々はその水が動いた時に一番に池に入ったら病気が癒されるという迷信を信じていました。そこにイエス様がこられ、「み言葉を信じる信仰」が人を教え、病人を癒されました。しかしその日が安息日だったので、ユダヤ人たちに責められたのです。それに対して「わたしの父は今もなお働いておられる」と言われました。神様の働きは人間の規定に従うものではないと言われたのです。私たちは自分の仕事をそのような働きとして受けとっているでしょうか。
P.F.ドラッガーの「マネジメント」という本の一節に衝撃をうけました。「仕事とは、人格の延長である」と言うことばです。彼は「仕事を失うことが人を傷つけるのは、金銭ではなく誇りのためである」と言いました。また、「仕事は重荷であって、必要とされるもの。呪いであって、祝福となるもの」と言いました。自分にとって仕事とは何であるか、を問いなおす機会となりました。すべての働きは神様が与えてくださったもので、その目的は金銭ではありません。人格の延長としての仕事とは、神様の働きに参与することだと思います。
イエス様は「神様が今働いておられるから、私も働く」と言われました。それは、人の救いにかかわる働きは人間の考えを超えるところにあることを示されたのです。神様が今もなお働いておられるなら、私たちもその働きに参与するのだと教えてくださいました。今日の仕事は、神様の働きに参与していることを誇りにして過ごしたいと思います。
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