ルカ 14:28 あなたがたのうち、塔を建てようとするとき、造り上げるのに十分な費用があるかどうか、まず腰をすえて計算しない者がいるだろうか。
アメリカのファーストフードのお店へ行って不思議に思うことがありました。飲み物がフリードリンクであるということ。そのためのカップは小・中・大・特大があり、それぞれに値段が違うのです。私などは「小を買って何杯でもお代わりした方が徳だな」と思ったのですが、みんな特大を買っているのです。ホントに不思議な光景でした。そこで一緒にいた、パーソン先生に聞いてみました。「アメリカの人たちって計算ができないことはないよね」と。すると先生は「たぶん、最後に持って帰る1杯のことを考えてんじゃないの~」ということでした。そうなんだと関心しました。最後の1杯を特大カップに溢れるくらいに入れて、オフィスに持って帰る人が多いのです。最後の1杯をどれくらいにするかを考えているのだなと思うと、すごく賢い人たちにみえてきました。それでもパーソン先生は「だから肥満になっていくのに・・・賢くないなあ~」と笑っていました。計算ができるのはどっちなんだろうという疑問だけがのこりました。
イエス様はエルサレムに向かう途中で、一緒についてきた群衆に弟子の条件を話されました。とても厳しい言葉がならんでいます。「もし~~でないならば、わたしの弟子ではありえない」と3度も言われました。最終的にはすべてを捨てて従うことを求められます。自分の人生においてよく考え、計算し、中途半端な決意は失敗すると、たとえをもって語られました。大切なことは、よく考えることです。
私がPTA会長のとき、広島の小学校の教育システムが変更になりました。「広島型カリキュラム」の導入だそうです。PTA会長としての意見を求められましたが、「そうですね〜」と言いながら、「内容の問題と誰がやるの」と思います。ただでさえ忙しく時間がない先生たちがまた苦しむことになるのかもしれません。このシステムではさらに2つの教科が増えます。「言語・数理運用科」と「英語科」です。なんと難しい科目と思います。簡単に言えば、いまの子供たちは数式計算には強いが、応用問題に弱い。知っている知識を運用できてない。それとコミュニケーションとしての英語力をつけねばというものらしいです。ゆとり教育のひずみから生まれた?という学者さんもいます。いま子供たちをみていると、運用力というより、想像力が弱いのじゃないかと思います。相手を思う気持ち、感謝する心、愛を考える力。これって運用力ではなく想像力とコミュニケーション能力。いわゆる共感能力です。だからこそ「宗教の時間」が絶対必要だと思います。宗教が根底にない道徳教育というものに違和感があります。このことを語り始めたら時間が足りませんが、いま必要なのは神様と向かい合う時間なのです。よく考えることです。
イエス様は「まず腰をすえて」と言われます。客観的という意味にも取れますが、信仰にとって何が一番大切かを考えてみよと言われたのではないでしょうか。あなたの人生にとって何が大切でしょうか。
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