ヨハネ 5:7 病人は答えた。「主よ、水が動くとき、わたしを池の中に入れてくれる人がいないのです。わたしが行くうちに、ほかの人が先に降りて行くのです。」
「あなたは落ち着きのない子ね」とよく言われました。落ち着きがないのではなく、いろいろなものに興味があるから絶えず動いていたのだと思います。幼稚園でも「落ち着きのない子」と言われている子どもほど、本当に面白い個性を持っています。絶えず何かに関心を持ち、それをひたすら追いかけているのです。落ち着きがないのではなく、興味がありすぎると言う個性を持っているとみてあげたらいいと思います。
エルサレムにある「ベテスダの池」での出来事です。イエス様は、長い間病気で苦しんでいた人を癒されます。池の水が動いたとき、一番はじめに池に入ったひとが癒されるという伝説があったようです。しかし彼はそこに行くことができず、誰も彼を池に連れていってくれなかったのです。池は間欠泉であったといわれていますが。イエス様は「水が動く」ことではなく、「心の動き」を重視されました。「よくなりたいのか」というみ言葉への「はい」という信仰。まずイエス様から心を動かされる。そしてそのイエス様にむかって心を動かすことを大切にされたのです。これが信仰なのでしょう。神様に対してたえず心を動かしておくことを教えられるのです。
飛行機が離陸するまでのわずかな時間があります。このとき、客室乗務員の方々はてきぱきと動き、緊急時の注意までビデオで流れます。いつも見事な働きだと感心しています。つい先日のことでした。この短い時間の中で緊急設備の案内ビデオが故障してしまいました。このまま見たということで済まされません。乗務員はどうされるかと観察していました。するとチーフがすぐに電話で「機械故障のため乗務員でデモします」と乗務員に連絡されました。なんと30秒もせずに、案内が人のデモンストレーションによってはじまりました。お見事でした。緊急時に、しかも時間がないなかでの咄嗟の出来事でした。日頃から訓練されている成果だと感心しました。さすがです。どうしてこんなことが咄嗟にできるのか?と考えていました。訓練もそのうちのひとつかもしれませんが、チーフの判断力とチーフへの信頼・従順だろうなと思いました。慌てず、冷静に、対処するチーフ。その方に対する信頼があるからまとまるのです。なぜいまこれをやらなければならないかの意味を、みんながわきまえていることだろうと思いました。
イエス様に病を持った人が「主よ、水が動くとき」と言いました。動くことに希望があり、この動くときに救いがあることを指し示す言葉です。しかし、私たちにとって動くのは「水」ではなく、神様の「御心」です。イエス様の御心は私たちに対して常に動いています。止まってはいません。私たちの職場でもたえず共に働く者へ心を動かし、認め合って仕事をしたいと考えています。
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