箴言 7:2 戒めを守って、命を得よ。わたしの教えを瞳のように守れ。
「父や母が教えてくれたこと」というテーマの本があります。人はそれぞれの家庭で、その家にあった教えをうけて成長します。その家庭が大切にしている教えでもあります。どの教えも「もっともだ」と思います。そのなかでもよく聞く教えは「まじめにコツコツと」というものです。人のすることはすべて神様が見ておられる。だから誤魔化さずに、「まじめにコツコツと生きること」だという教えです。この誰もみてないようでも、神様は見ておられるという教えは大切なものです。
箴言の7章には父の諭の中に、若者が女性に誘惑される場面がでてきます。聖書には「わたしが家の窓から、格子を通して外を眺めていると浅はかな者らが見えたが、中に一人、意志の弱そうな若者がいるのに気づいた」とあります。誘惑を受ける若者は、浅はかな者だけでなく、意志の弱い者であると忠告しています。
ある少年と死の話をしたことがあります。その少年もまた小学生のときに突然お父さんを天に送らねばならなかった子でした。じつは私と同じような境遇の少年だったのです。「人はなぜ死ぬのだろうか、私のお父さんもなぜ死ななければならなかったのだろうか」と話していました。するとその少年は次のように教えてくれたのです。「牧師先生、お父さんは死んでないんだよ。だってみんな僕をみてお父さんにそっくりだという。顔形も言葉も話し方だって。そして少し猫背のところまで似てるっていうんだ。だからね、お父さんは死んでない。僕の中に生きている。僕をみればお父さんを見ることができるんだ」と。そして、「先生の中にもお父さんを見ることができるんだよ」と。イエス様も「私を見たものはすなわち父を見たのと同じである」と言われました。それはイエス様の中に父なる神が生きておられるからです。同じように、私たちの中に父、母がいます。そしてずっとさかのぼっていくとキリストまでいくことができます。実は、私たちの中にはキリストがいてくださり、私たちを見たものはキリストをみたことになるということなんです。
箴言は、「わたしの教えを瞳のように守れ」といいます。瞳のようにとは、注意深く見つめることを意味し、目をそらさない、中心を見ぬくということでもあります。神様の教えをそのように守ることを教えています。み言葉から目をそらさずに、その教えをきちんと守っていくことこそ、まじめにコツコツと生きることなのです。その姿は自分の中に神様を見ることです。
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