ガラテヤ 2;20 生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。
最近のネットニュースでは「刺青の消し方」という話題がでています。一度背中や腕に入れ墨を入れると一生消せない。それを消そうとすると大変な痛みと闘わねばならない。また大金がかかる。時間がかかると繰り返しネットニュースででてきます。ということは、それだけ大変なことですからねという忠告かなと思います。しかし、一度入れたら消すことはできない。絵柄も心もというような表現に、キリスト教でも同じような表現を使うなと思いました。この身にキリストを帯びているという聖書の箇所を思い出したのです。しかし、痛みをともなわれるのはキリストなのですが。
パウロは、自分の内に生きておられるキリストを強調しています。キリスト者として生きる者は、徹底的にキリストを受け入れる者です。そして、キリストを徹底的に受け入れるとは、キリストが私を徹底的に支配されるということです。私たちは、信仰によってそれに従うのだというのです。ですから、パウロの行いはすべてキリストからでているものであり、キリストの業であるのです。
東日本大震災でルーテル支援は、被災者のお宅を一軒一軒訪問してきました。そのとき「何かお助けできるものはありませんか」と言葉をおかけします。大抵の方は「私たちより困っている人のところへ行ってください」と言われます。しかし、そこでは助けるものが何もないかというと、そうではありません。そんなときは「助けるものはなくてもお話をきかせてください」とお友達になっていただいています。いま被災者に必要なものは「家と仕事」です。その支援は大きすぎてルーテルさんではどうすることもできません。しかし被災者の方が「ルーテルさんがくると元気になるよ」「ルーテルさん何回もやってきてね」と言われる事が、とても感謝です。被災者のおじいさんがこう言ってくれました。「あんたらはキリストさんをしょってるのだね」と。その一言がどんなにうれしかったことか。
パウロは「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられる」と教えています。宣教に派遣される弟子たちも、みなキリストが内に生きています。私たちが支援活動をさせていただくとき、そこにはキリストがおられます。背中のキリストが、私たちの支援を支え、育み、生かしてくださっているのです。
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