ヘブル 2:18 事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。
東北被災地救援終了にあたって、これまで出会った被災者の方々に挨拶をしたときのことです。そ一人のおじいちゃんに「これから奈良にいくんだっぺか」と聞かれました。何のことかと思いました。どうも台風豪雨被害にあった奈良に救援活動にいくと思われたみたいです。被災者の方々はよく「わたしよりももっと大変な人がいるから」と言われます。「うちは流された人が2人だから。5人6人は大変だぁ」とも。自分のこともですが、被災にあって苦しんだからこそ、隣にいるひとの苦しみがよくわかると言うのです。現場にいなければわかないことがたくさんありました。救援活動の原点は現場に共にいることだと思います。
ヘブル書における「試練を受けている人たち」とは、ローマ帝国によって迫害されている人たちをさしています。しかし、迫害ゆえに信仰の疲れが生じ、信じることが出来ないというような内面的な試練の意味が強いと思われます。その試練さえも、イエス様の十字架の試練によれば取るに足らないと言います。イエス様が試練と苦しみに打ち勝たれたからこそ、苦しみ悩む者を助けることが出来る。苦しむ悩む者の試練をよくわかっていてくださるというのです。
奥様を先に天に送られ本当に心を痛めておられる方がいました。生前に奥様が描かれた油絵のすべてを亡くなってのち額に入れ、お部屋の中に飾っておられました。それだけでなく、遺骨をいつも腰のウエストポーチに入れいつもつけておられました。いつも共にあるのだということ、いつも共に礼拝しているのだという信仰だったのでしょう。 前夜式では1ヨハネ4章をお読みしました。「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神からでるもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているのです」と。
イエス様は十字架という試練を体験されました。そこでイエス様みずから苦しまれた。そしてそれをのりこえて復活されたのです。痛み苦しみと共におられるのです。その体験によって私たちを苦しみから救い出してくださるのです。試練を共に体験したものが、より深くそれを思うことができる。そこに愛があると思います。
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