ルカ 23:39 十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった。
「人生の最後の瞬間に何をしているかを考えたことがありますか」と、ある本で問われました。たぶんいままでの人生を振り返り、一番大切な人のことを祈っているかもしれません。その本にはつづけて、人生の最後に神様が現れて「あなたは生まれ変わって、もう一度、同じ人生を過ごすことになるけれど、それでもいいか」と問われたら何と答えるかともありました。一番幸せな答えは「いろいろ大変なこともありましたが、もう一度この人生で結構です」というものでしょう。すべては神様の御心のままに生きているのですから、この人生でよいのです。
イエス様が十字架に架けられたとき、左右に1本ずつ犯罪人の十字架が立っていました。この2人は人生最後の時をイエス様と一緒に過ごしました。ただ、一人は救われたのですが、もう一人は最後までイエスさまをののしっていました。人生の最後での言葉がののしりだったこの犯罪人は、救いが何か、一緒にいてくださっているイエス様が神様であることを信じることができなかったのです。
今年も1日から朝日記を書いています。朝日記でも前日にあったこと書きます。神様の恵みを数えるというテーマで前日を振り返ります。恵みといってもよいことばかりではありません。反省すること、悔改めること、悲しかったことも書きます。そんなときどうするかです。ああすればよかった、こうすればよかったと思うことも多いものです。後ろ向きになりそうなときもあります。これをどうやって神様の恵みとして受け取るか。課題でした。あるお坊さんに教えて頂いたことがあります。日記の最後に「それでもいい日だった」と書くことですと。いろいろなことがある。しかしすべては神様が与えて下さった恵み。辛いことも、苦しいこともそれを通して御心を示される恵みです。だとすると「それでも恵み豊かないい日だった」と書くことです。この一言で日記は続けられるのです。
聖書は十字架上の出来事の中で「十字架にかけられていた犯罪人の一人が、イエスをののしった」と記しています。私たちの働き、人生を考えるとき、終わりから考えることも必要です。神様のもとで復活の命を与えられる私たちは、その救いから振り返って今を見ることが求められています。確実な救いからみて「今」はどうかを考えてみましょう。「もう一度この人生で結構です」と言える信仰を与えられています。その信仰に立って今日を生きていきましょう。
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